矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

「元の世界に戻して」被虐待児は成長した後、解離障害に襲われる。その後・・・この部分は8月31日までネット上で無料立ち読みできます!
もし元不登校児の娘が自閉症だったら
「ママなんか死んじゃえ」衝撃の著者家族ノンフィクション!   

専門家のミスリードが佐世保高1女子殺人事件に影響している可能性 | 別居を指示しながら精神病院は手を引くそぶりを見せていたのかも知れない

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 センチメンタル・ドラマより問題な 専門家のミスリード

 

 専門家のミスリード-新たな構図が浮上している。せっかく1部で起こっていた「人間ドラマの結果としての殺人」説はお釈迦になってしまった。 「父親の再婚が裏切りだった」 「傷つきやすい人の少女の心情」それらのセンチメンタルな歌声は弁護人を通して少女が「父の再婚には最初から賛成していた。「母が亡くなり寂しかったので、新しい母が来てくれてうれしかった。仲良くしていた」と言う言葉も伝えられた。 「亡くなった母のことはもうどうでもいいのかな」と言っていたという知人の証言が1つだけあったが、もう一方には、加害者少女の方にも、新しい母親に関心を移す動きが早々と起こっていたのである。 「母親の死後、父親がすぐに再婚したことに傷ついて・ ・ ・ 」と言うヒューマニスティックな歌を歌い上げていた精神科・心理コメンテーター諸氏はそれでも「わかりやすい人間ドラマ」を歌い続けるのであろうか-皮肉は、ここまでにしておこう。新しい情報が現れれば、見方を変える事は誰にでもあることであり、むしろ初期報道の時点から意見が変わっていない方がよほどおかしいだろう。私は、 「女酒鬼薔薇説」(いま出ている女性セブンで私のこの見解が紹介されている)を変更するつもりはないのだが、ここに来て酒鬼薔薇事件にはなかったあまりにも大きな要因があったことを知った。

 

 精神医療や心理カウンセリングの介入が全くなかった 酒鬼薔薇 事件に比べて …

 

 それは、酒鬼薔薇の場合は、精神医療や心理カウンセリングの介入が全くなかったのに比べて、佐世保高1女子殺害事件の場合には、中学3年時に父親が少女にバットで殴られて入院した後は、事態の大きな部分が専門家の指導によって運ばれていた、と言う違いである。父親が少女と別居したのは、 「父親の生命に危険があるから」と言う精神科医の指導によるものであった(ちなみに、これは必ずしも奇想天外な指示では無い。斎藤環なる「引きこもりの専門家」と称される精神科医は、 「家庭内暴力があったら、暴力を受けた側が一定期間別の場所に移る、と言う手段で100%おさめることができる」と力説しており、担当医がこのよく知られた主張に従っても不思議では無い。私は、 「物理的に遠ざければ暴力のしようがなくなるのは至極当然」と言う程度にしか思えないのだが) 。

 

医療側指示と学校側指示は対立していた

 

 これに対して、学校側は「別居は好ましくない」と意見し、父親は別領域の「専門家」から、全く相反する指示を受けることになる。結局、父親が選択したのは精神医療サイドからの助言であった。父親と新しい母親は、父親の暴力事件後、少女を2つの精神病院に通わせていたわけで、少女はかなりの部分、精神医療の管理下にあったのである(精神病院の臨床心理士ではないかと思われるが、カウンセラーの指導も受けていた。父親は、精神医療のサポートシステムと、学校教育のサポートシステムとのあいだで、前者の指導を選択したのである。

 

精神医療がうまく対処できなかったらしいこれだけの理由

 

 では、精神医療のサポートはうまくいったのか。まだ、その詳細は明らかになっていないのであまり深入りはしない方が良いのかもしれない。ただ、現段階で分かっている情報から憶測すると、精神医療の関与はまるでうまく行かなかったのである。

 そもそも、 「 2つの精神病院に通院させた」と言う事実が、 「最初の精神病院の対応だけではダメだった」と言うことを露骨に表している。そして、少なくとも一方の精神科医は、その関与が無効であった事実を示す行動に出ている。

 

精神科医が「殺人しかねない」と相談していたのは実は美談でも何でもない


 「精神科医から児童相談所に『このままでは、殺人を犯しかねない』と言う相談があった」と言う報道である。最初これは、 「精神医療は少女の殺人を予見できた」かのようなトーンで報道された。少なくとも、私のところに来た週刊誌の電話取材はそうだった。記者の方はほとんど声をはずませて「どうやって見抜いたんでしょうか」とおっしゃる。私は、内心「殺人可能性を予見する精神医学的手段は無い」と戸惑いながら「実際の診察内容が分からないので、よくわかりません」と答えた。記者の方からはさらに「そういうことがわかる心理テストがあるのですか? 」と言う質問があったので私は「殺人可能性をチェックする心理テストは存在しません。攻撃性の強さをチェックするものならありますが・・・今、想像出来る事は、 『攻撃性が次第に増してゆくプロセスが観察されたのかもしれない』と言うだけの程度のことです」と答えた。

少し時間を置いて要約私には事態がおぼろげに見えてきた。私の予想はこうである。 「精神科医も、どうして良いのか分からなかった」-児童相談所に『このままでは、殺人を犯しかねない』と言う相談をしたのは、 「精神医療の素晴らしい予見可能性の力」を示す素敵な話では無い。最近の事情はよくわからないが、私の10年近い精神病院勤務経験の中で精神病院が児童相談所に相談を持ちかけた、と言う事は1度もなかった(児童相談所からアドバイスを求められたり、相互に連携をとったりすることはあったが、精神病院の方が切羽詰まって児童相談所に助けを求める、と言う事はなかった。精神病院は、投薬・入院という最強の手段を持っているからである) 。

 

「殺人の予防拘禁」などという役割には不向きな精神病院

 

 精神病院は、元来、治療の場所であって、 「犯罪予防のための拘禁施設」では無い(1部の人は、そのような機能を精神病院が果たすべきだと考えているようだが、 「病気の治療」 「予防的拘禁」と言う両方の目的が混在すれば、 「病気の治療」機能のほうは致命的打撃を受ける) 。本人の同意抜きの入院には、すでに症状が顕在化して診断が下がっていることや自治体首長の合意などが必要である。 「面倒なことは言わず、周囲の意見だけで、さっさと入院させてしまえ」と言う方には、西洋で、 「周囲の意見」で高齢者を入院させその遺産を周囲が乗っ取ることや、私が聞いた古い話だが、病院経営が苦しくなるとすでに退院した患者(特に生活保護を受けている患者)を病院職員が捕まえに行って入院費を稼ぐという「患者狩り」があった、と言うことを付け加えておこう。幻聴によって興奮している、鬱状態によって自殺の危険がある・ ・ ・などの状態に対しては精神病院は強力な手段を持っているが、 「殺人を犯しそうだ」などという事態に対しては、ほとんど対応策は無い。元来、そのような目的のために作られた機関では無いことを再三強調しておこう。

 それに、最新の情報では、この精神病院は満床で、少女を入院させる余地がなかったようだ。

 

継母の証言が鍵を握っている

 

 別居を指示した精神医療と、同居を指示した学校サイド。どこかで精神医療のミスリードがあったかどうかという事は、新しい母親の次の証言が鍵を握っている。 「最初は良かったけれど、どんどん悪化して・ ・ ・ 」精神医療の関与下で「何が」悪化していったのか。それが明らかになれば、果たして精神医療が適切な関与をしていたかどうか明らかになるであろう・ ・ ・だが、ほぼ予想はつく。事件の数日前、少女は「人を殺して解剖してみたい」と新しい母親に話す。母親からそれを聞いた父親は事件前日25日夕、時間外に県児童相談窓口に電話している。

 

父親のパニック電話は何を意味するのか

 

 ここから、 2つのことが明らかになっている。 1つは、 「時間外に電話した」と言う事は、追いつめられた父親がほとんどパニック状態になって援助を求めていた、ということである。もう一つは、この時点で父親は精神医療サイドの援助の限界に見切りをつけていたのではないか、ということである。この時間帯、精神病院になら、必ず宿直医がいる。 「精神病院にも急報したが、何もしてくれそうもないので、一縷の望みを抱いて児童相談窓口に電話した」のか、 「それまでの精神病院の対応から、もう頼みにならないから児童相談所にも助けを求めざるを得ない」と考えていたのかどちらかである可能性が高い。

 

「たらい回し」しかねなくなっていた精神病院のうろたえ

 

 病院側は、入院も検討していたというが、それ以前に、 「殺人を犯すかもしれない連絡」を児童相談所にしていたと言う事は、 「医療では対処できない」と考えて、児童相談所に(悪く言えば)丸投げする動きをちらつかせていたのではないだろうか。

 

防ぎようがなかったかも知れない可能性を視野におきつつ


  ネットで、精神医療分野では無い論者がレクターの言葉を引いて、 「あの時、ああしておけば、防止できた・ ・ ・と言う事件では無いのではないだろうか。どう転んでも、いずれは殺人を犯していたと考えざるを得ないのではないか」と発言していた。直ちに全面的に賛成することはできないが、そのようなニュアンスが強い事件であるという点については私も同意する。だが、その前に、親がこれほどまでに専門家の援助を仰いでいた上、専門家がどのような対応をしていたのかはもう少し明らかになっても良いのではないかと思う。

野々村議員号泣会見TVコメントを自己批判する | 5点までは強迫性性格で説明できたが残る謎は…

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強迫性性格-ルールずくめのお堅い人たち

整然としたデスク、日課が大好きな人たち 

 

 

 僕は、ミヤネ屋で、野々村元議員が会見で号泣したメカニズムを強迫性パーソナリティーの1現象として解説しました。今、その解説は号泣会見の1部しか説明できていないと思っています。ただ脅迫性パーソナリティーっぽく見え、そう説明しても良いと思われる部分があったことも確かです。それは、以下の通りです。

 

 強迫性パーソナリティーとは、 「秩序に厳密に従おうとする完全主義的な行動傾向」を指します。例えば、 「極度の整理整頓好きで、デスクの上は、いつも定義で測ったかのように整然とものが置かれている」 「時間厳守にうるさく、自分の日課を作って、その日課の時間が来たら、それまでやっていたことを中断してでも日課を守ろうとする」 「何事も、まずスケジュールを決め、想定外のことが起こっても、最初のスケジュール通りにやろうとする」などの特徴を示す人たちです。真面目は真面目なのですが、堅苦しく、四角四面で感情に乏しく、ルールにこだわる融通のきかない人たちです。

 

誰にも強迫性傾向は多かれ少なかれある


  小さな強迫的傾向であれば、どんな人も多かれ少なかれもっています。例えば、 「 4巻からなる本の中の必要なのは第3巻だけなのに、第1巻から順を追って読んで行かないと気が済まない」 「お椀の隅っこの方にこびりついた小さな米粒まで完全に落とさないと気が済まない」などです。誰にでも1つや2つはある確認癖も1種の強迫的な完全主義の1つの現れである場合もあります。 「いちど閉めたはずの鍵を何度も確認しないと不安になる」 「きれいに手を洗ったのに、汚れが完全に落ちていないような気がして、何度も繰り返して洗わないと気が済まない」 「もう十分にチェックした書類を、さらに何度もチェックしないと気が済まない」などです。


  ルーティンを重視する現代社会の中で、このような「規則通り、確実に」と言う事は誰にでも要求されることであり、どんな人にでも、このような傾向は多かれ少なかれ存在します。注意しなければならないのは、このような傾向が問題になるのは、その度合いがひどくなりすぎて、日常生活をはなはだしく阻害している場合だけです。つまり、 「何度も鍵がちゃんと閉まっているかどうかを悪人しないと気が済まないので、それをやっているうちに、毎回約束の時間を大幅に遅れてしまう」 「手を洗うことに何時間も費やして他のことができなくなってしまっている」などの場合にのみ問題になります。

 

野々村議員あるある強迫的エピソード

道を直角に曲がった野々村少年

 

 僕が、野々村元議員が基本的にこのタイプに属するのではないかと想定したのは、号泣会見の冒頭を見たときです。野々村元議員は、旅費の疑惑に対する釈明会見の冒頭で、記者の方々に、一人一人の名刺交換を強く要求し、各人に対してお辞儀をしながら名刺交換をするのを見たときです。 「この人は、物事の順序を杓子定規に守らないと気が済まない人なのではないか」と言う仮説が浮かびました。その後、野々村元議員が、記者の質問に答えるたびに、まず名刺で名前を確認しながら応答しているのを見て、ますます「この人は、堅苦しいまでに物事の順序を守らないと気が済まない人だ」と思いました。

 

 実は、野々村元議員のこの堅苦しいまでの「規則を守る」側面は、若い頃から見られたものだったようです。以下、週刊新潮7月17日号の「号泣県議員モンスター事件簿」で書かれているエピソードを紹介します。


  まず登場するのは、野々村元議員が育ったランチに昔から住んでいるおじいさんの証言-「小さい頃から真面目いうか変わっておる言うか・ ・ ・階段とか道を曲がるとき、直角に曲がる。キュって。動きが直角」 。なるほど、 「曲がる」ルールに関しても正確だったようです。

 

いつでもどこでもフォーマルウェア


  別のご近所の証言-「他の子供達がみんなラフな格好で来る学校のクリスマス会の時に、竜ちゃんだけ子供用のスーツ着て、髪も73分けにしていた」 ・ ・ ・なんでも「フォーマル」にしようとする傾向はミロンが指摘しています。


  名門北野高校時代にはコーラス部に所属していましたが、同級生は「一言で言うと、くそ真面目」と、次のようなエピソードを話します。 「練習が終わって、みんなで一緒に帰るとき、赤信号でも車が走っていなければ分かることもありますよね。でも、彼は赤信号の時は1人だけでも絶対に止まるんです 」 ・ ・ ・強迫性性格者は融通がきかないまでに規則やモラルを守ろうとします。

 

「儀式」で始まるスピーチは長すぎて司会者が制止


  選挙運動中、青年会議所主催の討論会では、 「しゃべり方が、独特ある質問に与えるとき、まずゆっくりと『今のご質問にお答えします』と言ってから喋る。いつも持ち時間を延長してしまい、司会者が途中でさえぎらざるを得なかった」と言うことです。

 

 この強迫性性格の根底には強い攻撃性が潜んでいる、というのがミロンの主張です。彼らは、 「自分の中の攻撃性を出してしまったら大変なことになる」と恐れていて、それをカモフラージュする手段として、自分の行動をルールに従ったものだけにしようと必死になっているから杓子定規になるのだ、と言うわけです。その上、自分のなかの「攻撃性・怒り」 「怒りを抑えようとしている心の働き」なども「見るまい、見るまい」としている・ ・ ・そうすることによって、彼らの心の中は、それらの心の各部分が互いにつながりがない状態になっている、とミロンは指摘します。

 

これが号泣の理由だ

 

無味乾燥な平板トークが抑えていたもの

 

 僕は、このミロンの説明には必ずしも賛同していません。それでも、この説にそえば、突然号泣を始めたメカニズムが説明できるのではないかと思いました。

 

 会見の冒頭を見てみましょう。野村元議員はほとんど無表情で、そこに感情を見ることはできません。質疑応答の場面でも一貫して口調は平坦で感情を見せません。ミロンは、強迫性性格者は 「ルールで自分をがんじがらめにしておかないと、大変なものが外に出てしまう」と恐れているために、感情を常に抑圧しているので、外見的には、堅苦しく生気が感じられない」としました。 1つ、野村元議員の堅苦しい佇まいは強迫性性格で説明できると思いました。ふたつめに説明できるのは、記者の発言を執拗に聞き返す確認癖です。 3つ目に説明できるのは、野村元議員の号泣前の説明の繰り返しの多い長たらしさです。


  会見が長引くにつれて、野村元議員の一見淡々とした釈明の中に、 「あー」「うー」というような無意味な発声が次第に出てきます。釈明している時の平坦さに比べて、苦しげな感情がこもった明らかに異質な声です。僕はこれを、普段抑圧している感情が出てきたものだと説明しました。

 

号泣後の顔はけっこうサワヤカ


  そして、いよいよ突然の号泣です。僕は、これはミロンの説明で解釈するのが最も適切だと思いました。つまり、普段から非常に強い怒りがあること、またその怒りをこれまた非常に強い抑止力で抑制している事。だからこそ、いったんその抑止が効かなくなってしまったときに、怒りの爆発も普段ため込んでいるだけに半端なものではなくなってしまった。普段自分を過剰にコントロールしているために、一旦そのコントロール力が崩壊すると、逆に全く統制不能な状態になってしまった・ ・ ・個人的には、この解釈は割とうまくできているような気がしていました。

 

 そして最後に、聞いている人々をずっこけさせたという「最初に、感情的にならないようにと申し上げたのに、私自身が感情的になって申し訳ありませんでした」と言う一言です。この部分はVTRで何度も確認したのですが、僕には、冒頭に比べると、心なく表情がすっきりしているような気がしました。そしてそれは、 「普段ため込んでいたものを発散できたことによる解放感」と説明できると思いました。これが、 「強迫性性格」と言う仮説でうまく説明できそうな5番目の点です。

 

実は未解明部分が残る

 

 ミヤネ屋で説明したときには、強迫性性格をベースに考えていました。しかし、その後、強迫性性格だけでは説明できない追加報道を目にしました。今、僕は、強迫性性格だけで説明できるのは号泣会見の半分だけであり、もう半分はもう少しぶっ飛んだ妄想型性格で考えなければならないと思っています。機会があれば、強迫性性格よりもはるかにレアな妄想型性格の見地からも解説してテレビコメントの不備を補いたいと思っています。

心理コメンテーターのでたらめぶりを告白も含めて切る | 佐世保高1女子殺害の加害者は「女酒鬼薔薇」で詰み

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マスコミの犯罪コメントの正体 (末尾に29日夜20時最新情報を付加)

そのうさんくささ-社会の安心装置

 

 僕は、犯罪コメントをこれまでたくさんやってきた。 「犯罪コメントなんて、有名になりたがっているエセ精神科医や偽心理屋が適当なことを言っているもの]と言う批判がある事はもちろん知っている。本当は、大して意味のあることではないだろうということもわかっている。それでも、社会が心理学用語で事件解説を求めていることは確かなのだ。つまり需要がある。精神医学・心理学用語を使ってもっともらしい作文を1つ作れば、世間はそれで何かが「わかった」ような気がして、安心する。時代は、出来事を何でもかんでも「心理的な出来事」として位置付けることを求めている。コメンテーターの仕事は、社会を「わかったつもり」にさせて、出来事を整理済の棚の中に放り込むことにすぎない。
 それ以上の意義が無い事はわかっていながら、お金がないので仕事を選ぶことができない。テレビコメントの依頼が来たら、断らない。

 

話を面白くしないこと-「よりましな悪」を求める


 そんな仕事であっても、僕は心がけていることが1つある。 VTR収録は、たいてい夜遅く、局の1室でいくつかのスタンドライトに照らされ、カメラさんがビデオカメラを構える中で行われる。そういう撮影の際に、僕はディレクターさんに一言お断りをする。
 「ぼくは、話を面白く作る事はしません。ぶっ飛んだ解釈はやりません。今ある材料の中で『ここまでは、ほぼ言えるだろう』と言う範囲のことしか言いません」
かなり怪しげな仕事をしているとは言え、 「言える事は、ここまで」と言う堅実な範囲内に留めておくというのが、僕のささやかな良心だ。
  だから、 「識者」の大半のコメントが「何、話を面白く作っているんだよ」と不愉快で仕方がない。 「お前も同じだ」と言われればそれまでだが、少なくとも僕はコメントはなるべく控えめな方向へ、堅実な方向へとする「よりましな悪」であることを心得ている。

 

「確実に言えそうなこと」に堅実にとどまる方が正解に近づく


 だから、事件が起こったその日のVTR収録で僕が言ったことの要点はたったこれだけだった-「これは、 『犯罪を起こしたい 』と言う動機の犯罪」 「加害者は、松尾さんとの間に悪感情・トラブルはなく、単に『松尾さんならば、声をかければ警戒せずにひとりでやってくるだろう』と言う被害者女子の人柄の良さにつけ込んで犯罪行為に利用しただけ」 「加害者が長時間にわたり殺害・遺体切断という残虐な行為に従事できたのは、罪悪感・恐怖感などの普通の反応を欠落させた反社会性人格障害だったと思われるから」 。そして、ネットの書き込みはその真偽がまだわからない段階だったので、 「一応、一言加えておきましょう」と言うディレクターさんの方針で付け加えた。 「ネットで犯罪行為を公開したということは、秋葉原通り魔殺人事件のように『空前の大犯罪を起こしてやりたい』と言う自己顕示があったからだろう。自己愛性がうかがわれる。もう一つの可能性としては、スキゾタイパル人格障害の可能性があるが、その可能性は薄いだろう。遺体を切断することによって儀式的・魔術的な事を行おうとしたわけではないから」 ・ ・ ・

 

加害者女子生徒と松尾さんの間の確執によるのではないという基本


 一晩経ってみて、僕の解釈は基本的なところで外れていなかった。松尾さんは加害者とその日一緒に買い物までしていた。加害者が動機として「人間を殺してバラバラにしてみたかった」と供述し、 「 『犯罪を起こしたい 』と言う動機の犯罪」で有る事は明らかになってきた。ただ僕はひとつ方向性を間違えていた。この事件と類似しているのは秋葉原通り魔殺人事件では無い。酒鬼薔薇事件である。加害者女子は、自己顕示的な自己愛性が強いと言うよりも、 「不思議ちゃん」の極限であるスキゾタイパル人格障害の方向で考えるべきだったのだ。まぁ、それについては後でまとめてみよう。

 

過剰な深読みに走る同業者たち

「生き返るのを恐れて首を切断した」はぁ?

 しかし、この佐世保高1女子生徒同級生殺害事件に関しても、 「話を面白くするなよ! 」といちゃもんをつけたくなるコメントがいくつもあった。初めてのことだが、ここでコメンテーターの実名を晒して批判する。公的発言であるはずだから、問題ないだろう。

東洋大の桐生正幸教授(犯罪心理学)は「殺害後も首が胴体につながっていることで、被害者が生き返るのでは、と恐怖心が増した可能性が考えられる」と指摘する。
 なにこれ。だって、相手、死んでんだよ。加害者、逮捕された後も淡々としていたんだよ。思いつきすぎる。

 

「好きだからこそ憎しみが募り…」


「15歳といえば、まだ人格が形成されていない思春期。被害者と親しかったとすれば、好きだからこそ憎しみも募り、発達段階ゆえに残虐性が発揮されたとも考えられる」と分析 (MSN産経ニュース) http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140727/waf14072723030035-n1.htm
 は?「好きだからこそ憎しみも募り」そんな心理法則があったら、世界中の高校生カップルは殺し合ってるわ。発達段階ゆえに残虐性?この人、発達心理学を勉強していないな。 1歳児がミニカーをバラバラにするのと、高校生が高校生をバラバラにするのとは、まるで心理機制が違う。

 

  「母親がいるあの子が憎い。殺してやる」 ・ ・ ・なにそれ 稚拙 

 

小宮信夫・立正大教授(犯罪学)の話 母の死をきっかけに、母親がいる被害者に憎悪を募らせた結果の抹消願望と、快楽殺人の混合型に至ったように見える。 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140728/crm14072822560027-n1.htm
 「私には母親がいないのに、母親がいるあの子が憎い。殺してやる」 ・ ・ ・なにそれ。ついでに、抹消願望なる専門用語は存在しない。
次も同じ(同サイト)。
 臨床心理士の長谷川博一氏(55)は「女子生徒は、母親との死別や父親の再婚で慢性的な孤独感を味わっていた。仲の良い家族のいる同級生への嫉妬が殺害の背景にあったのかもしれない」

「 お話作り」が止まらないコメンテーターたち 


 東洋大学社会学部の桐生正幸教授(54)=犯罪心理学=は「思春期特有の揺れ動く精神状態の中で、母親の死に接し、人の死や生命の不確かさのようなものを強く意識したのではないか。そこから、興味が生じて調べてみたいという感情が高まり、行動に出てしまった可能性がある」と指摘する。桐生教授は「こういった犯罪では、人間関係が出来上がり自分を信用してくれる人を対象にすることが多い。だから親しい友人をターゲットにしたと考えられる」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140728/crm14072821550025-n1.htm
 想像力豊かと言うより、話を盛りすぎ。もっともらしい創作話をつなぎ合わせている。「こういった犯罪では、人間関係が出来上がり自分を信用してくれる人を対象にすることが多い」なんて、聞いたことない。だいたい、こんな例、一般的傾向を指摘するほど事例が多くない。

 

スキゾタイパル人格障害-通常心理が当てはまらない相手もいる

加害者に通常の人間的感情はあまりないのではないだろうか

 

 僕が、これらのコメンテーターの発言が「深読み」だというのは、 「通常の人間の心理の動きをモデルとし、そのモデルに基づいて憶測を加えている」からである。
僕は、この加害者に関しては、それではダメだと思うのだ。嫉妬・愛情・憎悪・・・加害者は、そういう人間的感情を体験していたのか?あったとしても、そのような感情は極めて希薄なものでしかなかったのではないか。
  つまり、僕は、この加害者は、そのような理解可能な人間的感情から遠く離れた不思議世界の住人だったと割り切った方が良いと思われるのだ。
  そのようなタイプは、存在する。統合失調型人格障害が正式名称だが、僕は好んでスキゾタイパル人格障害と呼んでいる。僕がその印象を強く受けたのは、周囲から見て、打ち解けずとっつきにくい子供だったということだ。これは、 「他人に近づきたい」と言う人間的感情に乏しいこと、そもそも喜怒哀楽の起伏が平板だというこのタイプの特徴を表している。かつてぼくは、 『少年Aの深層心理』で酒鬼薔薇をスキゾタイパル人格障害とした。酒鬼薔薇の「死をみたい」と言う願望も最終的には説明が不可能なものだと思う。
 スキゾタイパル人格障害の最大の特徴は、一般社会が共有している常識や価値観とはかけ離れた理解困難な独自世界の中に生きているということである。その世界は、魔術的であったり、奇妙だったり、迷信的だったり、妄想的だったりする。 (小学校の時に異物を給食の中に混入させたという事件の動機が「馬鹿にされたから」と言う妄想的なものであったことに注目して良い)

 

説明しようもないものを無理にこじつけない解釈


  だから、加害者の「人間を殺害してバラバラにしてみたかった」と言う犯行動機に関しては、通常の人間的な動機からは理解不可能なものだ、とするしかないのである。ヤスパースは、通常の人間の動機によって理解可能な心理と、それでは了解不可能な統合失調症などの妄想とを分けている。
  だから、加害者の犯行動機に関しては、 「通常の人間の感情では理解不可能」とするしかないものだ。 「それでは何も言っていないではないか」と人は言うかもしれない。だが、無理な説明を付け加えようとすれば、上に挙げたような、こじつけと深読みをつなぎ合わせてもっともらしく仕立て上げたお話しか出てこないのである。

 

最新情報 

先ほど某番組のVTRコメント収録を終えたところ、他のディレクターさんが局の部屋に駆け込んできて「ついさっき、加害者少女が『再婚した父親が眠っている時に金属バットで殴った』件の裏が取れた」ということでした。この件は、ネットで以前から出回っており、ブックマークのご意見の中にも、「父親とそれほど確執があったということは、人間的な心情があったという証拠ではないのか」というご指摘が多数ありました。この問題に関しては、「父と娘」という私にも縁のある問題であり、考えるところを急遽7月31日夜7時からジュンク堂大阪本店で予定されている講演会でお話しさせていただきます


 

佐世保・高1女子殺害事件への心理的解釈 | 加害者同級生は秋葉原通り魔事件犯人を思わせる

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この事件は、秋葉原通り魔殺人事件と動機面において近いのではないかと思います。すなわち、 「事件をなるべく大きなものにして世間にインパクションを与えてやろう」と言う動機による事件です。自己顕示的と言っても良いかもしれません。背後には、加害者の高校1年女子生徒の反社会性人格障害自己愛性人格障害が入り交じった特異なパーソナリティーが存在します。

1 、 「憎かったから殺した」のではなさそうだ


まず、被害者生徒に対する敵意・憎悪に基づくものとは考えにくい点があります。


1 、被害者生徒が加害者生徒の一人暮らしに短期間で2回尋ねている

 被害者生徒は、数日前に加害者生徒と「遊ぶ」約束をしており、その約束が流れたために26日に加害者女生徒宅にひとりで行っています。もし、 2人の間にトラブルが起こっていたとすれば、数日前に流れた約束を再び果たすために加害者の一人暮らしの部屋に差し向かいになるような状況に飛び込んで行くでしょうか。 「遊びに行く」と言う言葉からも、被害者生徒は、危害を加えられる可能性など全く想定していなかったことがわかります。また、学校側は、 2人の間にトラブルがあったとは把握していない、としています。


2 、口論などで、衝動的に・ ・ ・とも違う


加害者生徒は、事前に、 「後頭部を殴る鈍器」 「首を絞める紐」 「遺体を切断する鋭利なもの」などを用意しています。つまり、事前に冷静に計画されて行われた殺害行為と考えるべきです。もし、 1時の衝動で殺害してしまったというのなら、殺害したところで目的はすむものであり、それ以上に遺体を切断する労力を使う理由がありません。また、 26日7時に被害者生徒は「 7時に帰る」と親に電話しており、その後の惨劇は全く予想していません。 2人が一緒にいた大半の時間は通常の「遊び」であったと思われます。

2.病的精神状態の下での殺人ではなさそうだ

 このような遺体損壊事件としてよく知られたものに、 「神戸男子小学生殺害事件」(酒鬼薔薇事件) 「福島母親頭部切断事件」があります。


1.上の2つの事件とも、事件直前に犯行少年は周囲に奇異に思われる言動をとっています。酒鬼薔薇事件では、自転車に乗って通りすがりの女児の頭部をハンマーで殴るという事件を起こしています(うち、 1人が死亡) 。また、周囲に「懲役13年」と題された奇妙な詩を見せるなど奇妙な行動をとっています。福島母親頭部切断事件では、犯行前に学校に行かなくなっています。加害者女子生徒に、もしも病的な言動が増えていたら、松尾さんは加害者女子生徒の家には行かなかったのではないでしょうか。また、学校側も、加害者女子生徒の行動に特に奇妙なものは見ていなかったようです。


2.上の2つの事件とも、損壊した遺体を奇妙な儀式的・魔術的な方法で処理しています。酒鬼薔薇事件の場合には、殺害した男児の口に犯行声明をくわえさせ中学校の門の上に置いていました。福島母親頭部切断事件の場合には、切断した母親の上を植木鉢に植えて奇妙なオブジェを作っています。いずれも、本人にとっては魔術的な意味があったのでしょうが、はたから見れば、異常なシンボル的世界の中に迷い込んでいたことを思わせます。しかし、この事件においては、遺体を儀式的・魔術的に処理するという事はしていません。 「酒鬼薔薇事件」 「福島母親頭部切断事件」とは異なる精神圏のものと思われます。秋葉原通り魔殺人事件の場合にも、目的は「空前絶後の大犯罪を起こす」ということであり、能率的な殺害方法が事前に考えられただけで、奇妙な意味を込める行動は見られませんでした。


3,松尾愛和さんが殺害された理由


ともかく、加害者生徒の頭の中は「ショッキングな殺人事件を起こしてやろう」と言うことでいっぱいであり、なぜ被害者生徒が殺害されたかと言うと、 「松尾さんならば、声をかければ、ひとりで自分の家にやってくるだろう」と思える相手だったからです。


1 、ぼくは、加害者女子高校生を反社会性人格障害の疑いがあると思っています。彼らは、他人の心理的弱点を読み取り、そこに漬け込む事は得意中の得意です。松尾さんも加害者女子高生と中学・高校と同じ学校で、同級生でもあり、 「相手を、疑わない」人だったのでしょう。だからこそ、加害者女子は松尾さんを大犯罪のターゲットとして選びました。 松尾さんが特別憎かったわけではなく、ただ単純に「大犯罪を1番実現できそうな被害者だと判断したからだ」に過ぎません。松尾さんの性格の良さにつけ込んだわけですから、 「他人の心理的弱点につけ込む」と言う点では卓越した国一宮を持っています。数日前に誘ったが都合がつかなかったのをまた誘う-と言うように、加害者女子高生は松尾さんにしっかりとターゲットを絞っていたのです。


4 .遺体を切断した理由


1 、カモフラージュの目的ではありません。松尾さんが「これから帰る」と言ったのは夜の7時であり、すぐに帰りが遅いと心配されてしまう時間帯であり、そんな時点から遺体を解体しても隠蔽し終わる前に松尾さんの親が訪ねてくる事はわかりきっていることです。


2 、遺体を切断する道具まで準備していたことから、完全に事前に計画された行動でした。首を切断したことは、事件をショッキングなものにするために欠かせない残虐性だと加害者女子高生は考えたのでしょう。特に魔術的・儀式的意味はなかったと思われます。


3 .通常、遺体を切断するなどという行為は、激しい嫌悪感を引き起こします。また、後悔や恐怖心がブレーキをかけてしまいます。加害者女子高生は反社会性人格障害であり、通常の人間に起こるはずの後悔・恐怖などは起こらなかったと思われます。


5 .インターネットに書き込みを行った理由(加害者女子高生が行ったものかどうか、確定しているわけではありませんが)

 

1.事件を広く知らしめ、社会にショックを与えることな目的だったので、人目に付きやすい2ちゃんねるに書き込みをすることは、最初から目的に入っていたとおもわれます。


2.酒鬼薔薇事件の場合には、犯人は、切断した頭部を中学校の校門の上に置き口に挑戦状をくわえさせると言うダイレクトな方法を用いました。これに対して、加害者女子高生の書き込みは、情報を小出しにし、 「まさか、この書き込みは本当か? 」と関心を引き起こすような「釣り」的な書き方をしています。また、 遺体ではなく、血まみれの自分の指の写真をアップするなど、情報の出し方が小出しで、逆に読む人を惹きつけるような工夫をしています。 「脳髄ってどんな色か知ってる? 」と言う質問を行うことも、相手の関心を引く一ひねりしたやり方です。人間の心理的弱点に対して嗅覚が鋭い加害者女子高生ならではのやり方です。


3 . 「どうしよう」と困ったフリを見せたり、 「お風呂に入る」など身なりのことを考えるなど、 「女性が書いたもの」と言う印象を強めています。 「女性が行った犯罪」を強調することが事件を大きくすると加害者女子は考えたのでしょう。


6 .加害者女子高生の人間像


1 、反社会性パーソナリティ障害と思われます。このタイプは、周囲を騙すことが異様に巧みであり、犯行の日になるまで「問題のない、普通の生徒」を装って周囲の目を欺くことができました。


2 . 「 1人でやった」 (こういうところに、自らのパワーを誇示する自己顕示的なものを感じますが)と言うところで、計画を立案し1人で最後まで実行するという(悪い意味での)独立性と行動力を持っています。


3 . 「殺人して、首を切断」と言う事は早くから考えていた可能性もあります。高校に入って、一人暮らしを始めた時に、すでに「犯行現場とするためには、家族の目が届かないことが必要」と考えでいたのかもしれません。加害者女子高生は異様なまでに独立的で他人に依存をしないため、親も「ひとりで暮らさせても大丈夫」と安心させるところがあったのかもしれません。


4 .心の奥底に「本当の自分は、周囲の凡人どもから超絶したものだ。誰にもできないことを成し遂げてみせる」と言う自己愛が存在したのかもしれません。


5 .反省の言葉を口にしないなど、他人の命をなんとも思っておらず(共感性の欠落) 、道徳心・共感性が欠落した人物と思われます。それよりも、 「自分1人の力で、大仕事(悪い意味の、ですが)を成し遂げた」と言う達成感しか今は無いのかもしれません。

 

 以上、今ある情報の中で無理のない心理的解釈はここまでだと思います。新しい情報が出れば、変えなければならない点も多々存在するだろうと思います。

福祉に関するあまりに道徳的な言説はこれなんじゃないか

福祉に関するあまりに道徳的な言説はこれなんじゃないか

 サルズマンの強迫性の議論を読んでいたら、こんな思いがけない文章が。

 

 彼らが高い道徳規準を掲げるのは、自分の行動に対する責任回避の方法になり

うる。それを口にしてさえいれば、それを現実に実行するかどうかということか

ら問題をそらすことができる。

 

 究極的な答えへのとらわれは、融通のなさを伴っている。それは、真実のため

の真実であり、生きることには役に立たず、逆に行動を回避するということを正

当化するという利得が存在するのである。

 

 彼らの知的探究が強迫的になると、現実問題をそれぞれの状況に応じて判断す

るのではなく、融通の利かない硬直した形式が適用され、それぞれ余地はなく、

型にはまった反応する。

 

 彼らは、自らを原則主義者に見せかけようとするが、一見断固とした考え方は、

不安感や決断回避を抑えるために要請された規則にすぎない。彼らは、自発的に

決断を持って答えることできなくさせている。

 

 他人から見下される危険がある失敗のリスクがある現実行動を避けようと努力することによって強迫性性格者の安全感が保たれる。現実の問題から逃避し、あいまいにするために強迫性性格者は大量の言葉を用いる。

戻ってきた母親と娘のつながり

戻ってきた母親と娘のつながり

きのう、妻が眠る前に「今、自分が青春を初めてやっているような気がする。

同性の友達がほとんどいなかった。今、エリが友達みたいな感じ。 1時間ぐらい

なら会話が続けられるし」と言う。

 妻は、昨日はバテバテになりながら、エリの好む無料ライブに炎天下を付き合

っている。それから俺2人でバレエのDVDを見てはしゃいでいる(もっとも、エリ

がチャイコスフキーの曲を好み、 1学期の終わりごろにYouTubeでバレエの動画を

見るようになってきたのを見て、とチャイコスフキーとプロコフィエフのバレエ

DVDを63購入したのは僕だ。ただし、一緒に見る時間がない) 。

 妻は、 YouTubeで歴史の解説ものの動画を見つけては、エリに見せて、説明し

ている。エリは、アンネ・フランクの伝記漫画を買ってきた。言うことが、 「ネ

ットの性格判断で見たら、自分は天草四郎とジャンヌダルクだった」の延々と続

くワンパターンではあるが。

 1学期の宿泊先から出してきたはがきは、宛先は僕だけだった。夏休みに入って

からの合宿先から出してきたはがきには、僕と妻の2人の名前が書かれていた。

 1学期の頃から、 「エリと友達みたいな関係になってきた」と妻が言っていた

が、障害特性が希薄になっててん妻にとってコミニケーションしやすいレベルに

なってくれたからだと思う(それと、勉強の指導を妻にさせないようにしている

事)

連載少年犯罪検証004長崎「一匹狼が存在できない女児世界」4

連載少年犯罪検証長崎「一匹狼が存在できない女児世界」肆

長崎佐世保女子児童同級生殺害事件

 では、約15年前の加虐的な女児とA子とは何が違ったのか−変わったのは、

周囲の人間関係である。

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 妻が担当した女児はほとんど友人らしい友人を持っていなかったようだった。

1年以上にわたる心理療法の中でクラスメートの話題はついに一度も出ることが

なかったのである。女児は「徒競走大会があって、自分は〇位だった」というよ

うな話題を出したのみで(加虐成パーソナリティーの最も根本的な特徴である

「人間関係を、まず競争関係としてとらえ、他人よりも優越することを求める」

という傾向がよく表れている)、そんな話題もごくまれであった。

 一方で、A子は、3名ほどの友人グループの一員であったようである。

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 十数年前の女児の場合、クラスの中で「孤立した存在」として生息することを

許される余地があった。だが、現代の女子生徒たちの世界にはそのような余地が

ほとんど残っていないようである。

今回の事件報道で女子生徒たちのグループ世界についていくつかのメディアがレ

ポートしていたが、それは私をいささか驚かせるものであった。たとえば、小学

校6年生の女児の携帯に1日に数回グループ友達からのメールが入り、10分以

内にメールを返さないと「返事遅い!」というメールが返ってくる・・・女子中

学生によれば「いっしょにトイレに行くのは当たり前」・・・私が本誌で考察し

た綿矢りさ『蹴りたい背中』では主人公の女子高校生を除いたクラスの全女子高

生はいずれかの友達グループに属している・・・

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私にもある女子大学生とこんなやりとりをした記憶がある―彼女は女性が数える

ほどしかいない学部に入っていて、たった一つしかない女性グループに入るか、

1匹狼になるかの選択肢しかない。だが、その女性グループは一人が立ち去った

途端にその人の悪口を言い合い始める、というグループであり、そこで周囲と調

子を合わせていくことにストレスを蓄積し精神症状が顕在化していたのである。

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「そのグループから距離をとることは検討してみましたか?」と私が問うと、彼

女は言下に「考えられません!」と悲鳴に近い声をあげた。「どこのグループに

も属していない、と言うのは絶対に嫌です。物心ついたころから、そんな目には

あったことがありません」―彼女にとっては、「どこのグループにも属していな

い」ということは想像することすら恐怖となるような絶対に起こってはならない

ことのようであった。