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矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

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「自分らしさ」の洗脳 | 文科科学省の心理主義が人生を狂わす

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今時の「家庭科」教科書をめくって仰天したこと

 

 都内の大型書店の1つに、各教科書会社から発行されている小学校から高校までの各科目の教科書を見ることができるところがある。 「俺たちの頃は、男子は技術家庭、女子は家庭科と別れて授業を受けていたんだよな。今は、男女合同の授業で何を勉強しているんだろう」と言う程度の軽い気持ちで中学校の「家庭科」の教科書をパラパラとめくってみた。 「ふむふむ、いまどきの男子は、ミシンの実習までやるのか」などと思いながら「衣服」の章をペラペラとめくってみた。


  そこで、度肝を抜かれることになる。

 

  「自分らしさを追求しましょう」-それ、教科書に書くのか? 

 


  章の初めの、 「衣服の意義」のところにこんなことが並べてあったのである。 「暑さ・寒さの防止」 「怪我の防止」 「社会的場面のふさわしさ」 「自分らしさの表現」 ・ ・ ・この「自分らしさの表現」と言う文句にぼくは仰天してしまった(よく覚えていないだけで、 「衣服の意義」にはもっとたくさんのことが挙げられており、 「自分らしさの表現」は、かなり優先順位の高いところに置かれていた。

 

「他人の目を考えて服を選ぶ」が普通じゃないの? 


  僕は、しばらく冷静になって考えてみようとした。だが、僕が人生で今まで会った人の中で「自分に似合うように、自分の姿が、少しでもかっこよく、美しく見えるように」と他人の目を意識して服を選ぶ人にはたくさんであったが、 「自分らしさを表現するためにこの服を選ぶ」と言う人はいなかった、と思った。せいぜい、 「 TPOを考え、相手に『あの人は、たぶん○○な人なのだろう」と言うように、自己プロデュースのために、少し悪く言えば、他人の自分に対する印象を操作するために戦略的に服を選ぶのでは無いだろうか。 「自分は、これこれこういう人間だから、それを表現するためにはこういう服を着ればよいだろう」などと考えて服を選ぶ人間が果たしてどれほどいるのだろうか。 「周囲からどう見えるかを基準に選ぶ」方がはるかに普通ではあるまいか。

 

小学校からすり込まれる価値-「自分らしさ」 


 僕が直ちに考えた事は、 「 『自分らしさ』と言うものは、人間の目指すべき高い価値である」と言うことを、文科科学省自身が「正しい教育」として教えている、ということである。しかもそれは「刷り込み」に近い。僕は娘の勉強に付き合って、すでに小学校の道徳の時間などで、しきりに「自分らしさ」 「個性の実現」が目指すべきものとして教えられていることを知っている。とすると、これはほとんど長期にわたる「刷り込み」と言うべき事態なのではないか。

 

 「やりたいことを、やりたいです」だけじゃダメなの?



  僕は、国を挙げて「自分らしく生きよう」 「個性」と教え込んでいることに目眩を感じた。僕は、生まれてから1度も「自分らしく生きよう」などと思ったことがない。ただ単に、 「あれをやりたい、これをやりたい」と言う動機で生きてきたに過ぎない。そして、誰かから、 「あなたがやっていることは、 3丁目の山田さんとまったく同じことであって、少しも個性的では無い」と言われたところで、 「ふうん」としか思わなかっただろう。僕にとって、 「他人と違っていること」そのことに対しては、なんら意味がない。自分がやりたいことができれば、それで全く満足である。

 

 物質的な目標の方がはるかに具体性がある


  まだしも、 「都内から交通機関で1時間以内のところに住み、車を持ち、年収500万円」 「会社勤めで300万円は貯金し、 30歳までに結婚して、子供は2人」というような物質的な目標の方がはるかに具体的で、少なくとも「どうすれば、それが実現できるか」と言う具体的な方向性を見いだしやすいものだ。

 

 一生涯探しても見つからないかも知れない「自分らしさ」「私の個性」


  これに対して、 「自分らしさ」 「私の個性」といったものは、抽象的すぎて雲をつかむようなものだ。それらは、 「他人との比較」の上にしか定義できないものだ。さらに、自分らしさ・個性などというものは、一生探しても、ついには見つからないものなのかもしれない。なぜならば、自分らしさ・個性と言うものは、最終的には、本人が自分自身をどう規定するか、と言うことに大きく左右される主観的なことであり、 「年収500万円」と言うような「ここまで行けば、目標達成]と言いうる客観的な基準が存在しないからである。下手をすれば、 「年収500万円」がいささか難しいものであろうとも、いつしかゴールにたどり着ける可能性があるのに対して、自分らしさ・個性のほうは、そこに到達できる保証は全くない。どういう生き方をしたところで、最終的に自分自身が自らを「自分らしい」 「個性的だ」と判断できるかどうかは全くわからない。この「個性教」に降り憑かれれば、一生涯を「個性」を追求する終わることのないプロセスにしてしまいかねない。

 

 国の教育政策が心理主義でいいのか-お国が言う事かよ


  つまり、自分らしさ・個性と言うものは、 「年収500万」に比べれば、自分が心の中で問答して自己決定するしかない極めて心理的なものなのである。


  個人として、 「自分らしさ・個性を実現するために生きて行く」と言う人に、私はとやかく言うつもりは全くない。それは、他人の勝手である。
  問題は、一国の教育が、きわめて心理主義的な色彩を強めているということである。だが、ここまで述べたとおり、心理主義的な目的を掲げると言う事は、実はかなりリスクの大きなことなのである。

 

「自分らしさ」病患者を大量に生み出した教育


  僕たちは、 「自分らしさ・個性]というような極めて曖昧なものを追求するように強いられている。それらは、 「まずここから始めれば目的に近づく」と言う具体的なステップを示さないために、失敗の危険は高くなるだろう。すでに、心理主義教育のために、どこにも見つかることがない「自分らしさ・個性」と言う言葉に踊らされて、経済的な基盤を作り損ねてしまったという失敗者を日本社会は大量に抱えている。

 

何でこんな事を書くのかと言えば、心理学が片棒を担いでいるからだ 


 ここに書いた事は、とりあえず、自己批判だ。一国の教育が心理主義的な偏向をきたした背景には、心理学の影がちらついているからだ。