矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

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東大大学院夏期入試試験(修士)合格しました

 14時2次試験合格発表予定の今日はネットで確認しようと思いました(一次試験はわざわざ本郷まで行ったら、ちょうど番号掲示板が校舎玄関に運び出されるところだった。番号を確認して帰る時に不覚にも嗚咽した。初めて自分がアカデミズムから認められたような気がした)。


 やっぱり自分の目で見た方が・・・という気もあったが、長女の英語の五文型のところを見ているうちに、もう今から出発しても遅いという時間になっていた。


 妻と長女が昼食の準備を始めていた。もう、ネットで合否発表を確認するしかない。15分ぐらい前からパソコンの前に座っていたかな。昼過ぎから確認しているが、もちろん、まだ出ていない。14時に本郷で掲示と同時にネット発表されることになっている。


 某専攻大学院「ニュース」ページに出ると思うのだが、何度もページ更新しても発表は現れない。何度か「落ちてたら、がっかりするだろうなぁー」という気が起こる。受験票を確かめたり。こういう時は気を紛らわせた方がいいと思って、ホムペをいじってみたり。それではっと気がつくと、数分経っていたりする。「うどんできたよ」って妻が言うので、「うん、すぐ食べるから」とおざなりに答える。


 14時になった。ページを更新したが、出てこない。もう一度更新すると、ページが現れるまで時間がかかる。ぎくりとする-来た。


 PDFを開いた。○○コース合格者の番号をどんどんページを下げていって、××コースの下の方に、あっさり受験番号があった。


 あっ、あったのね。って感じ。


 しばらく静かな時間があって、「あー、受かっちゃったんだなー」とそれでも自分の人生で一つのラインを超えたふわりとした感じ。静かなものだったけどね。


 あとは、長女と向かい合って何事もなく麺をすする。「温かい汁がいいの?お父さんは冷たいつるつるしたのが好きだな」というが、長女は近所のショッピングセンターの無料ライブに向かう。家族は、僕が密かに受験していたことも知らない。

 

 

(付記:ちなみに、過去、いろいろ紆余曲折ありまして)

身をひるがえし、鍵を差し込もうとして何度か失敗し、ようやく閉鎖病棟のドアを開け、階段を駆け下り、待合室を一気に駆け抜けた。不気味な建物内部から飛び出すと、そこは目も眩む日射しに満ちた病院玄関であった。誰も手入れをしなくなった亜熱帯の植物が伸び放題にあたりを囲んでいた。
敗残のあと

1989年8月、僕はトラックいっぱいに家財を積み込んで、名護から首里の安アパートに移った。近所にはほとんど店らしい店もない。どうやら家賃に見合った人々が住む一帯のようだった。半年間の失業手当。その後僕は、博愛病院や田本クリニックなどの精神科に非常勤の勤務先を見つけた。更に、近畿大学豊岡短期大学の通信教育のスクーリングの講師の職にありついた。2年間、何とか生活してゆける収入が得られるようになったが、先の展望は見えなかった。

・・・明治生命厚生事業団体力医学研究所。心理学科卒業の僕は門外漢だが、そこは父の縁故が通じた。

入所してみると、研究所は、本社と何か関連性がある研究テーマに協同して取り組むというわけでもなく、それぞれの研究員が自分の興味で勝手な研究を進めていた。それでも体力医学研究所研究員である限り、何か体育的なことに関係があることを研究テーマにしなければならない。苦慮したあげく、ダンスセラピーを選んだ。欧米では身体表現を使ったセラピーの学会が存在していたが、日本には紹介されていなかった。時たま海外からダンスセラピーの講師が招かれてワークショップをやっていたので、何とか幾つかのハウツーだけは学んだ。研究所では、年に何回か学会で研究発表をすることが義務づけられていた。だが、勉強を始めただけで、発表できるほどのデーターの蓄積はなかった。

矢幡洋著・『病み上がりの夜空に』 【第4回】僕の章―廃墟(その1)---布は、波や花吹雪、あるいは寒色の炎となり、美しく旋回した。その中心にジーパン姿の女性がいた。 | 立ち読み電子図書館 | 現代ビジネス [講談社]