矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

「元の世界に戻して」被虐待児は成長した後、解離障害に襲われる。その後・・・この部分は8月31日までネット上で無料立ち読みできます!
もし元不登校児の娘が自閉症だったら
「ママなんか死んじゃえ」衝撃の著者家族ノンフィクション!   

故笹井氏と小保方さんは男と女の関係だったのか | 遺書を読み解く

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「組織の人」にとっての異性

 

 故笹井氏と小保方さんは、不適切な「男と女」の関係にあったのではないか-マスコミの中では、そのような疑惑すら持ち上がっていた。今回、故笹井氏が小保方さんにあてた遺書の1部が公開され、 2人の間のメールの1部が明らかになっている。心理屋の僕には、STAP細胞がどういうものなのか、理研がどういう組織なのか、正確に説明するほどの知識すらない。心理屋のさがとして興味をそそられるのは、あくまで2人の人間の、それも男と女の間の関係性のあり方である。下世話な関心だと言われればそれまでのことだ。だが、僕が考えた事は、古き良き日本人タイプ-「責任感と組織の人」に取って、女性と言う存在が何でありうるのか、と言うことの多少の示唆にはなるかもしれない。

 

男と女の関係だったのか

 

 ズバリ、問おう。故笹井氏と小保方さんは、男と女の関係にあったのか。残っているきわめて少ない断片的な材料から判断する限り、 「違う」というのが僕の答えである。 7月27日「NHKスペシャル」で2人の間に交わされていたメールの内容というのはこうである。

 


「小保方さん本日なのですが、東京は雪で、寒々しております。小保方さんとこうして論文準備ができるのを、とてもうれしく思います」


「また近いうちにご相談にうかがわせていただけないでしょうか」


 心理学以前の常識的判断で申し訳ないが、このメールのやりとりは、恋する男女の間のものとしては、あまりにも儀礼的で堅苦しいものではないだろうか。せめて、もっと砕けた口調になるであろう。

 

男女の関係を疑われたことは相当な痛手になってしまったのでは

 

 NHKの7月27日の検証報道では、このメールでのやりとりが男性ナレーターと女性ナレーターとの会話という形で公開されたが、あたかも「不適切な関係にある」という印象を意図的にあたえようとするかのような内容だったことが指摘されている。

 故笠井氏が周囲に愚痴をこぼしていた、という証言はあまりない。この放送内容に関しては、珍しく怒りをこめた発言をしていたようだ。

 これは、内部から NHKにリークされたのではないかということを 故笠井氏は疑っていたようで、「裏切られた」と発言していたそうだ。また「このような内容をまとめた非難メールが来た」と記者にこぼしていたということだが、男女の関係を疑われるということは非常に心外だったのだろう。

 組織へのロイヤリティーが高い笠井氏にとっては、その組織の内部で悪意の情報提供者があったということは心外なことだったのだろう。また、この時期から心療内科通院など、急速に鬱状態に傾いていったという証言もあり、非常な打撃になったのかもしれない。会談での首つりという自死の選び方は、この「裏切り」に対する「抗議」だったという記事が配信されているのを見たが、私はあくまで「組織に直接的な迷惑をなるべくかけたくない」という気持ちだったのだろうと思う。

 ただ、故笹井氏にとって、小保方さんに対する思いは、やましさを疑われたくない、とても大切なものだったのだろう。

 

 

業務の中での親密感


  一方で、同時に故笹井氏の「小保方さんとこうして論文準備ができるのを、とてもうれしく思います」というような感情の表明は、単なる事務的な段取りの連絡には似つかわしくないことも事実である。そこで、僕の仮説を早々に言ってしまおう。故笹井氏と小保方さんの間には、通常の男と女の関係はなかった。それでも、甘美な親密さが取り巻いていた。だがそれは、 「論文の準備をする」 「共同研究をする」というような、あくまでも「業務上の関係」の枠の中で貫かれるという節度の中にあった。

 

「仕事仲間」という制限の中で

 

 このような関係は、僕たちの身の回りで、必ずしも珍しいものでは無い。男と女が互いに好意を持っている。だが、プライベートな場所での密会はなかった。故笹井氏は小保方さんの隣に座って論文執筆の指導をすることもあったという。やっていることは、あくまで組織の業務だ。だが、交わす言葉に温かみがこもる。ふとしたはずみに視線と視線が合い、互いに好意を持っていることを2人とも承知している。誰しもこのような「共同作業という枠の中での好意」と言う経験は1度ぐらいはあるのではないだろうか。そして、両者が「この関係は、決して男女の恋愛関係に発展することは無い」と言う暗黙の了解の上に立っていることを強く認識している、と言う関係を。

 

シンデレラという立ち位置

 

 忘れてはならないのは、両者は決して対等な関係ではなかった、と言うことだ。完全に故笹井氏が優位に立ち、小保方さんは相手を見上げる立ち位置にあった。 1種の師弟関係でもあるが、それを超えて、強い故笹井氏が弱い小保方さんを庇護する関係であったということだ。 2人の関係が疑われるきっかけとなった言葉に、故笹井氏が小保方さんを「僕のシンデレラ」と呼んでいた、と言うこともある。だがシンデレラは、継母のもとで家の中で最も立場が低い雑用係だったのであり、妖精の助力によって王子様からその真価を見いだされる存在である。サファイア姫でもアリエルでもない。笹井氏の釈明会見の時、小保方さんは「尊敬する笹井先生が私の過ちのために会見で厳しい質問にお答えになっている」と号泣したという。この言葉でも、小保方さんの自らの位置づけは「不肖の弟子」である。ただし、師の苦境を見て号泣するほどの思い入れがあった。

 

庇護者という立ち位置

 

 ボディーガード役のケビン・コスナーに自らをなぞらえていた 故笹井氏 である。小保方さんを庇護するという決意は強かった。遺書の中の「新しい人生を一歩ずつ歩みなおしてください。きっと きっと」と言う最後の言葉は、 共同研究者にかける励ましの言葉の域を明らかに超えている。端的に、故笹井氏は小保方さんの今後の人生を見守る心境にあった-端的に言って、 「相手の幸福を心から願っていた」 。

 

 「笹井ガールズ」-それはないのでは

 

 故笹井氏は、 「ノーベル賞学者山中教授に嫉妬心を持ち、多数の華やかな女性研究者を活躍させることによって、巻き返しを図っていた」なるストーリーがあった。だがこれは、芸能界の取材になれたマスコミの発想に過ぎないだろう。 「あとから追ってきたものに追い越されたものは、強い嫉妬心を感じる」は極めて通俗的な人間観に過ぎないし、天下の理研は芸能事務所とは違う。別に新女性アイドルユニットを結成するなどという方法をとらなくても、 「双璧をなす実力者」と目されてきた故笹井氏はまずは自らの力で山中氏の業績を凌駕することを考えられたはずである。

 

「負い目」の人、気配りの人

 

 故笹井氏は鬱状態にあったのであろうという僕の見立てには変わりは無い。繰り返される謝罪。自分の弱さの告白。相手を1人戦場に残していることの申し訳なさ。 「相手が感じるであろう罪悪感」を予想して「私が先立つのは、私の弱さと甘さのせいです。あなたのせいではありません」「自分をそのことで責めないでください」と先に手を打つ気配りの良さ。これらの他者志向は、抑うつ気質の人達の基本的な特徴を示している。故笹井氏は彼自身が「負い目」を背負う人間であったからこそ、小保方さんにそのような負い目が発生しないようにという気配りをすることができたのだ。

 

単調な人生に舞い降りた蝶

 

 さて、後から先は、地味な解釈から離れて、少し僕の個人的なファンタジーを羽ばたかせて見ることにしよう。


 所属長や事務方に遺書を残していったという故笹井氏である。組織の規律に対する意識の強い組織人であった。釈明会見の場にも「理研の幹部としてきた」と理研のバッジをつけてくるロイヤリティの強い人であった。それだけに、生真面目で堅実だが、 「自分の色」があまり見えない。家にほとんど帰らず研究に没頭していたという故笹井氏である。彼の人生は、職務意識に基づいた無味乾燥な研究者生活ではなかったのだろうか。そこに、小保方さんという華やかな存在が現れた。それまでの単調な人生に天上から舞い降りた艶やかな蝶のような姿とも見えたかもしれない。そのような華やかな香りに初めて出会った故笹井氏には、小保方さんの研究者としての欠点は目に入らず、自分が手塩をかけて大輪の花へと導いて行かなければならないようなかけがえのない存在に見えてしまう。彼が初めて出会った蝶のような存在の弱点を見落としたまま、のめり込んでしまう。

蝶を夢見て

 

 

 「新しい人生を一歩ずつ歩みなおしてください。きっと きっと」と言う遺書を抱いたまま首をつった故笹井氏の末期の眼には、最後まで彼を魅了し続けた小保方さんが幻の蝶の姿のまま輝いていたのかもしれない。
 

 

徹底比較!佐世保高1女子加害者vs酒鬼薔薇 | みなさんは、どちらに怖さを感じますか?(修正版)

 

f:id:yahatayo:20140801143748p:plain 画像左は佐世保高1女子殺人事件加害者が美術展に出展した自画像(週刊新潮8月7日号)25ページより引用

 画像右は酒鬼薔薇事件の少年が犯行直前にノートに描いた「バモイドオキ神」(模写)

 

 先日発売された週刊文春・週刊新潮で佐世保高1女子の件を自分で昔書いた『少年Aの深層心理』から酒鬼薔薇事件について、両者を比較しつつまとめました。随ぶん異なる点もありますが、類似性もまた多いです。

 両者とも、幼児期から攻撃性が顕著だったことを考えると、根本的な動機は、「生まれつき攻撃的な傾向が強かったから」という言葉でしか説明できないかも知れません。両者を比較して、みなさんはどうお感じになるでしょうか。

 

 男女ナチュラルボーンメンへラーが項目で徹底対決

生育環境を比較する

佐世保高1女子                   

地上2階地下1階の大豪邸           

エレベーター有り、屋上で花火可能

庭には池・小川・錦鯉

グランドピアノが2台

土地・建物で2億5千万ほど(新潮)

酒鬼薔薇

中流家庭

 

家族構成

佐世保高1女子                   

両親・兄・本人(兄は東京の有名私立大学に進学)                

酒鬼薔薇

両親・本人・弟

 

父親像

佐世保高1女子                   

早大卒、やり手弁護士               

イケメン、スピードスケート(国体選手)            

佐世保長者番付、将来は市長立候補の噂(文春)大手電機企業等の顧問弁護士

母親に対しては帰宅時間などに管理的だったという証言もある

酒鬼薔薇

中卒 、働きながら技術を習得した苦労人

 

父親との関係

                  

佐世保高1女子                   

父親はスケート・スキー・ピアノを薦める

頭部を金属バットで殴られてからは、精神科病院に通わせるなど事態に懸命に対処しようとしていた

父親はフェイスブックに娘から誕生ケーキをもらったことを書いたり、周囲に「いい娘」と言ったり、関係がよいことを強調

娘は、同窓会などの公的な場所では「尊敬している」「育ててくれてありがとう。これからもよろしく」「再婚には最初から賛成」などと肯定的なコメントをしているが、「 パカボンパパデザインの誕生ケーキ 」「エイリアン」など微妙なニュアンスの発言も多く、一対一では「あんた」呼ばわり、友人の前では「ゴミ」呼ばわり

酒鬼薔薇

子どもとよく遊ぶ 

無口だが兄弟げんかは厳しく叱る

「兄弟げんかで僕だけが怒られる」と不満

 

母親像

佐世保高1女子 

東大卒、教育委員、著作有り        

地元放送局に勤めていた

子育てNPOを立ち上げる

家族が参加する県スピードスケート連盟の会長を務める

「父親が娘に向き合っていない」と不満が合った様子

酒鬼薔薇

 専業主婦 

母親との関係

佐世保高1女子               

幼少期からなつく(母親と一緒の時は笑顔を見せる)                      

学校は母親が見送り              

グランドピアノを教える             

食事は作っていない(お手伝いさん) 

癌療養中に殺害を考えて寝室までゆくが思いとどまった

 

酒鬼薔薇

近所中に聞こえるほど大声で怒鳴る

5時起床9時就寝させる

幼稚園から他人の前でも叩いた

母親に呼ばれると体をこわばらせる

「息子はひ弱」と拳法に通わせる(小学校1年生)                       

小2の時「忘れ物したことお母さんに言わないで」とパニック状態になる 

 

 

幼少時

佐世保高1女子                   

幼稚園の頃通っていた絵画教室で 落ち着きがなく感情の起伏が激しく 彼女の来る日は誰も来なくなってしまった    

あまり笑顔を見せない 

酒鬼薔薇

母親からかばってくれた祖母の背中の感触を後年まで懐かしむ

毎日弟をいじめて泣かせる

他児を砂場に押さえつけて石で殴る 

 

小学校

佐世保高1女子                   

マンガ・人形・ボカロ・生き物好き     

成績はそれほど勉強しなくてもトップクラス(東大を目指す、と公言) 

「(弁護士になる)兄・父と戦いたい」と検事の夢 

一貫して自分を「僕」と呼び、女の子らしい格好はしなかった

音楽・絵画などのコンクールで何度も受賞、スピードスケートでも活躍

酒鬼薔薇

母親を作文で「ま界のま王」と書くなど、葛藤を表現

小3で「母が見えなくなった」と騒いで「ノイローゼ」診断

上級生から非行グループのパシリに .「学校で何か問題があると俺が疑われる」と不満を持つ 

病的行動の始まり

佐世保高1女子                   

中学受験やり過ぎと同級生に批判され「馬鹿にされた」と相手の給食に 4回 続けて漂白剤を入れる。五回目は男に入れて「分かった?」と確認しにきた(特に理由なし)。 なかなか謝らず。         

突然泣き出すなどの突然の感情爆発があり、周囲は敬遠気味。                  

学校周辺に目を突かれた猫の死体、切断された手足などが発見され、女子の仕業で はないかと噂になる。猫を解体したことは 認 めている。

酒鬼薔薇

5年次に祖母死亡、悲しむ。愛犬死亡死に興味をち、蚊を ピン,のノリにつけて死んでゆくプロセス観察する。 やがてカエル・猫などの動物を様々な法で殺害し 性的興奮を覚えるようになる。小動殺害は小学校時で中止。「僕と私の家」という美のテーマに紙粘土を真っ赤に塗らしてそこに何本もカッターナイフを突き刺すという作品を作る。 

 

中学時代の暴力

佐世保高1女子                   

猫を殺したらしい。

癌で自宅療養中の母親を殺したくなり、寝室までゆくが思いとどまる。

中学3年10月、母死亡。この頃から学校に行かなくなる。(スピードスケート国体には父兄とともに参加)              

寝ている 父親の頭を金属バットで殴って頭蓋  骨陥没の重傷を負わせる。 

「殺すつもりだった」と供述。

 

酒鬼薔薇

 中学2年頃、祖母死亡。落ち込む。 中学二年生、上級生女子の家まで無表情でついてゆき(足を踏 まれたので謝ってもらおうと思った) 注 意される。その直後、自転車に乗ってゆきずりの女児 をハンマーで殴る。 3月、別の女児を 殺害その 後、ノート にバモイドオキ 神の絵を描き 「人間の壊れやすさを試す儀式アングリを行った」 と 記す。 詩「懲役13年」を周囲に見せる。 その後、友人に「犯人は自分だ」と 打ち明けるが、すでに相手がその噂を立ててをいたことを知り、呼び出して殴るケルの暴力、最後にナイフを持ち出す。    

 

犯行前 

佐世保高1女子 

中学校同窓会に行ったとき、父親を前に「感謝している。これからもよろしく」と頭を下げる。 「将来、砂漠をらくだで旅をしているかもしれないけど」と奇妙なことを言いながらも「自分を忘れないでほしい」と級友の前でスピーチ。

「イタリア(オーストラリア)に留学するため」口実で一人暮らしを始める。周囲の印象は、「夕方~夜しか姿を見せない」「いつも男物の格好をしてくらい感じ」などの生活で登校しないまま。

父親殴打がきっかけとなって、二つの精神病院に通院。精神科カウンセラーのすすめで父親の身の安全のために、見える距離の所に住む。

犯行前1週間でハンマーとのこぎりを購入、松尾さんに遊びにくるように呼びかける。

酒鬼薔薇

 その後、10日間不登校。一人でベンチにたたずんでいる姿などが見られている。

 

佐世保高1女子

 

継母に「両親を殺そうとした。人を殺して中を見たい」と言う。これを知った父親は精神科病院に入院を相談するが、断られる。少年相談の窓口に相談を持ちかけるが、時間外。

凶器を買いそろえる。松尾さんを2回にわたり自宅に招き、二回目に会うことができて、ショッピングなどをともにしている。夜8時頃、「我慢できなくなり」松尾さんを背後から後頭部をハンマーで強打。ひもで首を絞めて絞殺。

 

酒鬼薔薇

 

5月24日、自転車で「人を殺したい、殺せる相手を探そう」という目的で自転車で走り回る内(絞殺をしてみたいと思っていたので、手袋をはめていた)、小学生男児に出会う。「亀を見に行こう」と人気ない丘に入り、後ろから首を絞める。首を絞めている時はエキサイトし、射精した。

犯行後

 

佐世保高1女子 

 

犯行を隠滅する意図はなく、ベッドの上で遺体を解体しようとした。 血で文字を書こうとしたらしい跡があった。 警察と松尾さんご両親が尋ねてきたとき、返り血を浴びた服を着替えた顔を出し「知らない」と言ったが、室内を見られて発覚した。以降、取り調べには淡々と応じているとされている。

 

酒鬼薔薇

 

 犯行を隠滅しようと思い立った。その時初めて、頭部を切断してみたいという願望が浮かんだ。最初、切断された頭部は「面白く」見え、ほれぼれと見入っていたが、何日かたつと飽きてしまった。捜査攪乱のために自分の中学の校門の上に置けばかえってそこの生徒は怪しまれないと思った。「30代、学校に怨みがある男」を犯人像に仕立て上げたいと思い、頭部の口に挑戦状をはさんだ。「さあ、ゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜どもには死の制裁を!!積年の大怨には流血の制裁を!!学校殺死の酒鬼薔薇」

 

 以上です。僕は、どちらかというと、佐世保の女子高生に怖さを感じます。酒鬼薔薇の方は「こういう育てられ方をしたら、ゆがむかも知れないなぁ」という理解はできるのですが、佐世保の女子の方は、恵まれた環境の中で、どうやって殺人に発展する傾向が生じたのかが、よくわからないのです。

 みなさんは、この両者を比べると、どちらに「怖さ」を感じますか?

(この記事は前に出しましたが、左右対称にしたので見にくかったので、追加情報とともに整理し直しました)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分らしさ」の洗脳 | 文科科学省の心理主義が人生を狂わす

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今時の「家庭科」教科書をめくって仰天したこと

 

 都内の大型書店の1つに、各教科書会社から発行されている小学校から高校までの各科目の教科書を見ることができるところがある。 「俺たちの頃は、男子は技術家庭、女子は家庭科と別れて授業を受けていたんだよな。今は、男女合同の授業で何を勉強しているんだろう」と言う程度の軽い気持ちで中学校の「家庭科」の教科書をパラパラとめくってみた。 「ふむふむ、いまどきの男子は、ミシンの実習までやるのか」などと思いながら「衣服」の章をペラペラとめくってみた。


  そこで、度肝を抜かれることになる。

 

  「自分らしさを追求しましょう」-それ、教科書に書くのか? 

 


  章の初めの、 「衣服の意義」のところにこんなことが並べてあったのである。 「暑さ・寒さの防止」 「怪我の防止」 「社会的場面のふさわしさ」 「自分らしさの表現」 ・ ・ ・この「自分らしさの表現」と言う文句にぼくは仰天してしまった(よく覚えていないだけで、 「衣服の意義」にはもっとたくさんのことが挙げられており、 「自分らしさの表現」は、かなり優先順位の高いところに置かれていた。

 

「他人の目を考えて服を選ぶ」が普通じゃないの? 


  僕は、しばらく冷静になって考えてみようとした。だが、僕が人生で今まで会った人の中で「自分に似合うように、自分の姿が、少しでもかっこよく、美しく見えるように」と他人の目を意識して服を選ぶ人にはたくさんであったが、 「自分らしさを表現するためにこの服を選ぶ」と言う人はいなかった、と思った。せいぜい、 「 TPOを考え、相手に『あの人は、たぶん○○な人なのだろう」と言うように、自己プロデュースのために、少し悪く言えば、他人の自分に対する印象を操作するために戦略的に服を選ぶのでは無いだろうか。 「自分は、これこれこういう人間だから、それを表現するためにはこういう服を着ればよいだろう」などと考えて服を選ぶ人間が果たしてどれほどいるのだろうか。 「周囲からどう見えるかを基準に選ぶ」方がはるかに普通ではあるまいか。

 

小学校からすり込まれる価値-「自分らしさ」 


 僕が直ちに考えた事は、 「 『自分らしさ』と言うものは、人間の目指すべき高い価値である」と言うことを、文科科学省自身が「正しい教育」として教えている、ということである。しかもそれは「刷り込み」に近い。僕は娘の勉強に付き合って、すでに小学校の道徳の時間などで、しきりに「自分らしさ」 「個性の実現」が目指すべきものとして教えられていることを知っている。とすると、これはほとんど長期にわたる「刷り込み」と言うべき事態なのではないか。

 

 「やりたいことを、やりたいです」だけじゃダメなの?



  僕は、国を挙げて「自分らしく生きよう」 「個性」と教え込んでいることに目眩を感じた。僕は、生まれてから1度も「自分らしく生きよう」などと思ったことがない。ただ単に、 「あれをやりたい、これをやりたい」と言う動機で生きてきたに過ぎない。そして、誰かから、 「あなたがやっていることは、 3丁目の山田さんとまったく同じことであって、少しも個性的では無い」と言われたところで、 「ふうん」としか思わなかっただろう。僕にとって、 「他人と違っていること」そのことに対しては、なんら意味がない。自分がやりたいことができれば、それで全く満足である。

 

 物質的な目標の方がはるかに具体性がある


  まだしも、 「都内から交通機関で1時間以内のところに住み、車を持ち、年収500万円」 「会社勤めで300万円は貯金し、 30歳までに結婚して、子供は2人」というような物質的な目標の方がはるかに具体的で、少なくとも「どうすれば、それが実現できるか」と言う具体的な方向性を見いだしやすいものだ。

 

 一生涯探しても見つからないかも知れない「自分らしさ」「私の個性」


  これに対して、 「自分らしさ」 「私の個性」といったものは、抽象的すぎて雲をつかむようなものだ。それらは、 「他人との比較」の上にしか定義できないものだ。さらに、自分らしさ・個性などというものは、一生探しても、ついには見つからないものなのかもしれない。なぜならば、自分らしさ・個性と言うものは、最終的には、本人が自分自身をどう規定するか、と言うことに大きく左右される主観的なことであり、 「年収500万円」と言うような「ここまで行けば、目標達成]と言いうる客観的な基準が存在しないからである。下手をすれば、 「年収500万円」がいささか難しいものであろうとも、いつしかゴールにたどり着ける可能性があるのに対して、自分らしさ・個性のほうは、そこに到達できる保証は全くない。どういう生き方をしたところで、最終的に自分自身が自らを「自分らしい」 「個性的だ」と判断できるかどうかは全くわからない。この「個性教」に降り憑かれれば、一生涯を「個性」を追求する終わることのないプロセスにしてしまいかねない。

 

 国の教育政策が心理主義でいいのか-お国が言う事かよ


  つまり、自分らしさ・個性と言うものは、 「年収500万」に比べれば、自分が心の中で問答して自己決定するしかない極めて心理的なものなのである。


  個人として、 「自分らしさ・個性を実現するために生きて行く」と言う人に、私はとやかく言うつもりは全くない。それは、他人の勝手である。
  問題は、一国の教育が、きわめて心理主義的な色彩を強めているということである。だが、ここまで述べたとおり、心理主義的な目的を掲げると言う事は、実はかなりリスクの大きなことなのである。

 

「自分らしさ」病患者を大量に生み出した教育


  僕たちは、 「自分らしさ・個性]というような極めて曖昧なものを追求するように強いられている。それらは、 「まずここから始めれば目的に近づく」と言う具体的なステップを示さないために、失敗の危険は高くなるだろう。すでに、心理主義教育のために、どこにも見つかることがない「自分らしさ・個性」と言う言葉に踊らされて、経済的な基盤を作り損ねてしまったという失敗者を日本社会は大量に抱えている。

 

何でこんな事を書くのかと言えば、心理学が片棒を担いでいるからだ 


 ここに書いた事は、とりあえず、自己批判だ。一国の教育が心理主義的な偏向をきたした背景には、心理学の影がちらついているからだ。

自閉症が百倍に増えたという嘘八百を信じるかい | 締め付けにかかる米国をよそに皮算用の日本人研究者たち

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このクソ記事を見よ-スマホが自閉症の原因だって?

 

「45年前には全世界で5000人に1人といわれていた自閉症患者が、現在は50人に1人になっています。・・・私はテレビをはじめ、スマホなど電子機器による影響も少なからずあると考えています」(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/151956/1)…自閉症についてどれだけ馬鹿げたことが言われているかを示す証拠としてブックマークしておこうかと思ったのだが、ブックマークを増やせばこの記事を読む人が増えるかもしれないと思って、やめた。おかげで、また検索しなければならなくなった。

 

 「名誉教授」なんてあんまり信用しない方がよさそうだ

 


「スマホなど電子機器による影響」によって自閉症が増えたという主張がかつての「ゲーム脳」並のニセ科学的馬鹿馬鹿しさであることが不愉快であったという訳では無い。記事の「自閉症100倍増」と言う見出しでぼくはブチ切れてしまった。 (ちなみに、この発言の主は「kids21子育て研究所」所長の片岡直樹氏(川崎医科大名誉教授)

 

 アメリカでは診断基準が変わったとたんに自閉症診断は40倍に増えた 


「自閉症が増加傾向にある」 と言うのは、全くの見せかけのものに過ぎない。


 事実上の精神疾患の国際的な診断基準となっているDSMⅣでは、 「自閉症には、軽症のものから重症のものまである」と言う認識のもとに、 「アスペルガー障害」と言う新しいサブカテゴリーが採用された。DSMⅣの編集責任者アレン・フランシスは、 「自閉症の診断は従来よりもこの改定によって3倍から4倍に増えるだろう、と予想していた」と述べている。ところが、診断基準が変わったとたんに、アメリカでは、自閉症の診断が実に40倍に増えたのである( アレン・フランシスは「せいぜい3~4倍になるだろうと予想していただけだった」と苦しげに回想している) 。

 

 脳の生得的障害がいきなり増えたのではなく、過剰診断が増えただけ



 これを、 「自閉症児が急に40倍になった」と考える人は居ないだろう。 「診断基準が変更されたので、自閉症の診断を適用される対象者が増えた」ということであり、さらに言えば、 「診断基準がゆるまったのをいいことに、自閉症診断が過剰に濫発された」と言うことにすぎない。最初に紹介したきじでいうような「自閉症が100倍に増えた」などと言う事実があるのだとしたら、日本では、アメリカにはをかけて自閉症診断が濫発された、と言うことにすぎない。そもそも、脳の生得的な障害とされている自閉症が、急に40倍だの100倍だのに増えるなどということはありえない。

 

自閉症診断を減らそうと乗り出したアメリカ精神医学界 


 アメリカの精神医学会は、慌てて引き締めにかかっている。昨年改訂されたDSMⅤでは、自閉症の診断基準が非常に厳しくなった。アメリカの研究者たちは、自閉症診断が減少することを予想している(アスペルガー障害という診断名は廃止された) 。

 

 少年犯罪を「アスペルガー障害」と診断したことで流行が始まった


 僕は、日本における自閉症診断の急増は、半分は、自閉症研究者たちの陰謀めいた目論見に基づくものだと思っている。それは、今年の佐世保の高一女子殺人事件に先立つ10年前、同級生を刺殺した女子小学生がアスペルガー障害と診断された頃から始まっていた(今日では、もう「アスペルガー障害」と言う診断の下しようがなくなってしまったわけだが) 。つまり、 1部の自閉症研究者たちが、センセーショナルな少年事件に対して、 「アスペルガー障害」 「自閉症」と診断を下すことによって、社会の、これらの発達障害に対する注目を急に引き上げたのである。このことは、彼ら研究者にとっては、 「患者が増える」と言う実益にかなうことであった。

 

自閉症診断濫発を率直に認めない日本人研究者たち 


 現在でも、昨年の診断基準改定によって、自閉症の診断基準が厳密化されたことをはっきりと述べている研究者は必ずしも多くない。多くの研究者たちは、アメリカの動向を正確に伝えようとせず、 「発達障害は増加するばかり」と吹聴している。

 

 「責任能力なし」 狙いの アスペルガー障害 鑑定が偏見を強める 


 彼らの恥知らずな言動によって、 「アスペルガー障害」 「自閉症」は、少年犯罪において「責任能力なし」と言う無罪放免を狙うための法曹界の最もお手軽な常套手段となり、いたずらに偏見を強める結果となった。

 

 純粋な科学ではない-精神医学も、心理学も


 どんなに少なくとも、はっきりさせなければならないことがある。それは、精神科の診断というものは、背後に政治的な利害関係を伴った非常に不純なものである、ということだ。

実母も殺そうとしていた佐世保高1女生徒 | 家族カンパニーだったのかも知れないが、精神病院専門家は手を引こうとしていたのでは?

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病床まで殺そうとして行ったけど、思い返した

 

 事件以来、最大のショッキングな報道はこれだっただろう-「加害者女生徒は、ガンで自宅療養中の実母を殺害しようとした」 。これで、 「傷つきやすい10代少女」をテーマとするセンチメンタル・ストーリーは完全に崩壊したことになる。 「仲の良かった母親が亡くなって半年も経たず父親がずっと若い女性と再婚し、新しい母親を迎えた敏感な年頃の少女は・ ・ ・ 」事件当初、コメンテーターたちが歌おうとしたこの浪花節は、 「父親の再婚に少女は最初から賛成していた」 「父親が入籍し少女が新しい母親と初顔合わせをしたのは、少女と別居した後」などの報道であっけなく崩れていった。そして、大きく報道された「 (父親は)なくなった母親のことは、もうどうでもいいのかな」と言っていた女生徒自身が新しい継母に「新しいお母さんが来て嬉しい」と早々に乗り換え、一緒に料理をしたりピアノを弾くなど関係は良好だった・ ・ ・それどころか、事件前まで、女生徒が1番良好な関係を維持していたのはこの継母だった可能性が高い。殺人願望は、すべてこの継母に語られたのである。 「人を殺してみたくて、ガン療養中のお母さんの寝室まで行ったけど、思いとどまってやめた」と言う衝撃の事実も含めて。

 

仲良し母娘-でも殺人願望にはあまり関係なかった

 

 この親子3人の関係のあり方は、週刊誌報道などでほぼ概要が見える。
母親と最も良好な関係にあった事は間違いなさそうだ。母親は、東大卒で、地元で放送関係の仕事についた後、地域活動を始め、教育委員の任務についたりNPOを立ち上げるなど活発に活動している。女性とは、幼い頃から笑顔を見せることが少なかったようだが、母親と一緒に犬を散歩に連れて行くときには楽しそうな笑顔を失せていたという。母親は本も出版しているが、少女はその本の表紙の表題とイラストを担当した。 「すごく仲が良い」母娘に見えていたようだ・ ・ ・後日、殺そうとしたわけだが。

 

「尊敬している」「ゴミ」-父親への使い分け

 

 父親との関係は把握しにくい。だが、 1つははっきりしている。少女は、父親のことを語る際、人前なのか身内だけなのかではっきりと表現を使い分けていたということだ。中学の同窓会では「父を尊敬している」 「育ててくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」などと言っていたが(父親の再婚が決まった後に校内英語弁論大会のスピーキングはじめに「私の父はエイリアン」と言ったということが意味ありげに報道されたが、「エイリアン」のニュアンスがポジティブなものだったのかネガティブなものだったのか、わからない)母の49日前後に少女と主張乗せたタクシー運転手は「娘が父親を『あんた』と呼んでいた。会話はほとんどなかった。違和感を感じた」と証言している(女性セブン) 。また、友人の前で父親のことをゴミと呼んだという。

 

父親は 『夢、自由』-家族には微妙な違和 

 

 さて、弁護士の父親であるが、本職では有名企業の顧問弁護士を務めるなど、非常に腕利きだったらしい。ただし、標準以上の報酬額を取ったり、訴訟相手を必要以上に叩きのめすような、腕に任せた強引さがあり、同業者の中では反発もあったらしい。「とにかく金持ちで明るい性格の人。佐世保市内の高級住宅街にある豪邸には、自らの好きな言葉『夢いつまでも 自由に生きて』と書いた石碑がある。50歳を過ぎてから有名大学に通い、トライアスロンのサークルに所属したり、法律講座に参加したりと、若い人たちとも積極的に交流し、活動的な人だった」(父親を知る関係者zakzak8月2日)と言う。隣には、両親のために家を建てていた。豪邸に住む、佐世保の名士だったのだ。将来は、市長に立候補するのではないかという噂もあった。父親は、周囲には「妻だけには頭が上がらない」と語っていたが、母親のほうは、 「夫は家庭をかえりみず、子供と向き合おうとしない。私の帰宅予定時間も全て報告しなければならない。でも、簡単に離婚できるものではない」と周囲にこぼしていた、と言う証言が週刊誌に掲載されている。

 

「亡き妻の思いを胸に」-美談報道

 

 父親が、長崎県におけるスピードスケートのパイオニア的存在であり、母親は県スケート連盟の会長であり、子供2人も早くからスケートに親しみ、今年1月には親子で国体に出場していた。家族そろっての国体出場が夢だったが、母親が昨年癌で亡くなり、葬式会場では、父親が1時間にわたる「感動的な」弔辞スピーチを行ったという。ただ、週刊誌には「 『最愛の妻を失った夫』を演じている様な違和感」を感じたという証言もある。そして、父親・兄・女子生徒のスピードスケート国体出場が果たされ、父親・女子生徒の写真が載った「亡き妻の思いを胸に」と言う大きな記事が1月30日の長崎新聞に掲載された。

 

「素敵な家族像」を売るカンパニー

 

 私が感じるのは、この一家は特異な「家族カンパニー」ではなかったのかということだ。 「一家で自営業を営んでいる」と言う意味では無い。 「家族それぞれの行動を1つの商品として展示する」ことによって付加価値を獲得していたのではないか、ということだ。 「一家で揃ってスピードスケート」ことも、 「売り]にできるし、 「母親を失いながらも残った家族で国体出場」と言うことも「売り」に出す。このように、 「家族のあり方」によって注目を獲得し、名声を獲得しようとするならば、当然、 「家族のあり方」は美しいものでなければならない。私は「ここにこそ、少女が歪んだ原因があるのだ! 」と叫ぶつもりはない。この程度の裏表がある家族など世の中にいくらでも存在するし、 「家族の行動を商品として展示する」事は、作家ならば多かれ少なかれやっていることだからだ。

 

結局、「手頃であれば誰でもよかった。殺せさえすれば」

 

 この家族の在り方には興味をそそるものがある。だが、女生徒の犯罪を説明するものとしてはあまり意味を持っていない。わかっている限りでも、女生徒は、父親を殺そうとし、母親を殺そうとしたのである。それまで継続していた人間関係が薄かろうと濃かろうと、ほとんど欲望の歯止めに意味を持たなかったと言うところにこそ、この女生徒の大きな特徴がある。報道初期には、 「父親が元凶」といったトーンが目立っていたが、私は犯人探しには興味は無い。最も大切な事は、 「人間を殺して解体したい」と言う願望がまず先にあり、 「誰を相手にするのか」と言うことについては、病床の母親であろうと、寝ている父であろうと、声をかければ訪ねてきてくれたクラスメートであろうと、 「殺しやすい相手であれば誰でもよかった」と言う性格の犯罪であった、ということである。

 

もういいんじゃないか、この父親のバッシングは

 

 個人的には、 「もし直接顔を合わせたら、この父親はあまり好きになれそうにない相手だな」と言う感じはする。だが、自分の娘から「あんた」呼ばわりされることを受け入れていたという事と、半ばパニックに陥りながら、専門家の助力によって娘の危険な状態をなんとかしようと努力していたという点で、特段糾弾しなければならないほどの失態があったとは思えない。

 

精神病院は別居を指示しながら、この一家を放棄しようとしたのでは?

 

 むしろ、もっと大きな問題としては、 2つの精神病院が関与しながら、結局、この家族との関わりから逃げ出そうとするかのような動きしか見せなかったということである。女性セブンの記事によれば、父親に女生徒との別居を勧めたのは精神科病院のカウンセラーだったらしい。そこまで踏み込んだ指示を出しながら、次は、担当医が「殺人を犯すかもしれない」と児童相談所のほうに助けを求める。事件直前に両親が入院の相談に行った時に、 「 1人部屋が空いていない」と言う理由で断り、 「他の精神病院でも、同じ対応だろう」と「精神科病院は、この件では力になれない」と露骨に告げている。おそらくパニック状態に陥った父親は、いてもたってもいられず時間外に児童相談所に電話をして、他の援助先を探そうとしていた。

 

もう家族関係よりも、専門家の対応の方を見るべきだ

 

 精神科病院に長く勤務していた身として、 「それ以上の対応をするには、よほどの準備が必要だっただろう」と言う病院側の事情はなんとなくわかる。どこかの時点で何らかの手立てを打てば防ぎ得たのかどうかということも怪しい。ただ、精神医学や心理学というものが何ができて何ができないのかを表すために、病院側がどのような対応をしたのか可能な範囲で情報公開がされることを願いたい。 
 

抑うつ気質の人のウィークポイント | 笠井氏自殺は人ごとではない?自分を責める真面目かたぎが陥りやすいスパイラル

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笹井芳樹氏は「しょいこみ型タイプ」だった?

 理研・笹井芳樹氏の痛ましい自殺は、元来あった抑鬱気質の上にこのタイプの人たちが特に苦手とする「周囲との調和が破壊され、自分を非難する口実ができてしまった時の弱さ」と言う側面が現れ、自罰が急速に自殺へと進んでしまったのではないか、と私は考えます。短く言えば、 「背負い込み型のMタイプに突然これまでなかった重い荷物が背負わせ忘れられ、急速につぶれてしまった」と言うプロセスが進行したように思います。この見解は、すでに本日のテレビ朝日『モーニングバード』で解説していますが、 「抑鬱気質とは何か」と言うところから説明します。 「自分にも、あるある」と思い当たる方も結構いるでしょう。ご自分の長所・短所を客観的に把握する一助となれば幸いです。

 

「他人の期待に合わせる」「らしさ」の抑うつ気質


  抑鬱気質の特徴を並べてみましょう。根本的には、 「他人の意向」に自分を合わせようとし、他人とのあいだがスムーズであればほとんど葛藤に苦しむことのないタイプです。自分自身よりも、 「他人が自分に期待すること」を優先します。 「相手への気配り」に始まって、 「世間一般が自分に期待しているであろう事」にも忠実であろうとします。つまり、 「○○らしさ」と言う世間の期待する役割に合わせようとする人たちです。学校の先生であれば「先生らしく振る舞おう」とする、スポーツマンであれば「スポーツマンらしく振る舞おう」とする、女性であれば「女性らしく振る舞おう」とする、と言う傾向をみせます。さらに、組織に所属していれば、その組織が「自分に期待しているであろう事」にも忠実であろうとします。有名企業の社員であれば、 「○○社の人間にふさわしく行動しよう」と言うように、組織に対するロイヤリティの高い人たちです。

 

スタジオでお会いした格闘家ムサシさんはこのタイプっぽかった



  意外なところで一例を挙げると、総合格闘技で一時代を築いたムサシさんがそんなタイプでした。スタジオで長くご一緒したことがあるのですが、彼の口から出る事は、 「お客さんの期待を裏切らないように」 「フアンの声援に応えられるように」ということばかりでした。 「トップになってやる」 「絶対にライバルに勝ってやる」といったようないわば自己中心的な願望は全く口にしませんでした (もちろん、現役時代には、 「今度の試合では、絶対に相手をぶったおす! 」というような発言も多々なさったことでしょう。しかし、それらも「周囲が自分にアグレッシブな言動を期待しているから」だったのです) 。そして、それらの、 「周囲の期待」に応えようとしてのものすごいトレーニングを、質問されれば答えていましたが、常に謙虚な口調で練習量を誇るような言い回しは絶対にしませんでした。帰りにエレベーターでご一緒しました。私は「あなたは、元来は、他人をとても大切にする人なのではないですか」と質問すると、ムサシさんは申し訳なさそうな照れ笑いを浮かべながら頭を掻いて「実は、トレーナーからは『おまえほど、格闘技に不向きな性格の人間は滅多にいない』と言われているんです」と言っていました。

型に従う「古き良き日本人」タイプ

 

 このタイプの人たちは、他人の期待に応えようとするために「がんばる」 「無理をする」をしがちな人たちです。当世大流行の「自分らしさ」 「個性」と言う事はこの人達にはほとんど念頭にないようです。彼らにとっては、 「周囲の人の期待に応えることができて、摩擦が生じない」状態こそ最も大切なもので、はたから見るといわば「古きよき日本人」 。自己主張の少ない、真面目で気配りのできる温厚な人たちです。もっとも、やや型にはまった感じがあり、なかには周囲から「面白みがない」 「没個性的」と見られてしまうこともあります。

 

「いい人」な彼らが負のスパイラルに陥る時



 もちろん生きた人間ですので、笹井氏には別の側面もあったでしょう(精神的に健康度が高い人ほど、柔軟性があり、場面によって他の行動パターンに切り替えることができます) 。しかし、このたびの経過をみると、 「一旦『周囲の期待を裏切った』と言う事態になると、自分1人を過剰に責める」と言うこの社会性ある人たちの弱点が急速に出てしまったように思われます。これまで、栄光ある道を歩んできた笹井氏には「周囲の期待を裏切った」と言う状況の経験に乏しく、自分の苦手パターンになってしまったときに負のスパイラルを堪える自分流テクニックを磨く機会がないまま来てしまったのかもしれません。

 

論文を厳しく指導できなかったのも「他人への配慮」ゆえか?



  小保方さんの論文指導において、ややことを急いでしまったのは事実でしょう。他の研究者がメールで「論文に問題点がある」と指摘したときに、笹井氏の返答は「あとでゆっくり話し合いましょう」と言うものだったそうです。しかし、他人の論文指導というそれほど経験豊富とまでは言えない作業の中で詰めの甘さを見せてしまったようです。ただし、その中には、抑鬱気質独特の「相手の気持ちに対する気配り」もあったようです。 「他の、研究者に対して、 『未熟』を指摘することは、ためらわれた」というような発言もありましたが、そういう気配りが論文の仕上げを厳しく指導するには不向きだったのかもしれません。

 

「迷惑」を「挽回」しようとして「無理」をする



 STAP細胞論文の事件が世間を騒がすことになってから、笹井氏はそれまで経験したことがなかったようなバッシングを受けることになります。そして、早々に体調を崩し、いったん入院していたそうです。しかし、真面目なこのタイプの人たちが自分を追い込みやすいのは、 「これ以上休んだら、周囲に迷惑をかける」と言う外の基準を優先して、自分自身の体調や欲求を後回しにしてしまい、結局のところ無理をしてしまうことです。

 

他人を責めるより自分を責める



 とにかくこのタイプの者達は、他人を責めるよりも自分を責めることに傾きやすい-笹井氏は、早い段階で引責辞任の意向を組織内部で表明していたようですが、やはり、並外れて優秀な人だったのでしょう、上部から引きとめられていたそうです。そう言われてしまうと、このタイプの人達は、自分の初心を貫き通すことよりも、組織上部の意向に従うことを優先してしまいます。そういう組織内部の細かい事情までわからない世間から、 「図々しく居座っている」と言う目で見られることになります。ここで、笹井氏を引きとめた理研が、所属メンバーをを外部の風評から守る十分な対応を行ったとは言い難いでしょう。

 

我が身よりも他人の行く末を気遣う



  その後、断片的に伝えられる笹井氏の言動は、他人志向という抑鬱気質の一面が見られるものでした。例えば、 「この研究室はなくなってしまうかもしれないから、君たちも次の仕事に当たったほうが良い」と周囲に言っていたそうです。周囲の人の気配りが先に出てしまうところがこのタイプのよくある特徴です。決して「この、研究室が無くなったら、俺は、いったいどうすればよいのだ」ではなかったのです。

 

笹井氏のメンタルヘルスを守る方策は取られていたのだろうか



 STAPの存在を肯定する発言をしていましたが、その後、その存在を疑わせる事実が明るみになるに連れ強い責任を感じるようになっていったのではないかと見られています。そして、検証が予定されていた8月前には「鬱状態だったのではないか」と言う憶測が成り立つでしょう。 「心療内科に通い、薬の副作用でろれつが回らなくなっていた」 「昔の元気が失せていた」 「隠しの励ましのメールに返事を出さなかった」など数多くの材料があります。理研上部は「笹井氏は、このところ、研究上のディスカッションもできない状態だ」とほとんど喋る気力も失せてしまった状態の報告を受けていました。個人のメンタルヘルスに対する配慮は不十分なものではなかったのかという疑問が残ります。

 

組織への一体感・ロイヤリティー



 私がVTR取材で質問された事は、 「なぜ、職場の階段の踊り場を自殺の場所に選んだのか」と言う疑問でした。
  まず、笹井氏は、理研という組織に対する一体感がことのほか強かったと思われます。釈明会見の場にも理研メンバーのバッチをつけて現れ、それについて質問されると「私は、理研の幹部として、理研の落ち度をお詫びするためにきたからです」と言う趣旨のことを理解繰り返しています。公的に要求される役割を重視する発言でした。これは同時に「私は、理研の一員」と言うことが、アイデンティティの中で大きく、 「私は家族の一員」 「私は地域の一員」ということよりも比重が大きかったのではないかと思われます。
そんな笹井氏にとって、 「死に場所」は、自宅ではなく、理研でなければならなかったのは当然だったのかもしれません。彼にとっては、 「家族の一員」と言う以上に「理研の幹部」と言う意識が強かったのでしょう。

 

小保方さんではなく、自分を責めた



  笹井氏が死に場所としての理研に赴いたときに、懐に理研の複数メンバーに対する遺書を携えていた、と言う事は重要に思われます。ことに、小保方さんへのものには「あなたは悪くない」と言うことと、謝罪の言葉が書かれていたそうです。人によっては、恨みつらみを書いてもおかしくないと思うのですが、やはりここでも「悪いのは、あなたではなく私だ」と言う抑鬱気質の人の発想が濃厚に表れているように思います。他には、理研トップにあてた遺書や、事務にあてた遺書があったということですが、ここでも彼は、個人的なつながりというものよりも、自分が亡くなった後、相手に後ろめたさを残させないよう、円滑に引き継ぎが行われるようと言う、他者や組織に対する配慮を優先していたように思われます。

 

踊り場を選んだ理由



 最後に、 「階段の踊り場での死」と言う中途半端な場所の謎です。最後の最後に彼は、 「研究室や、実験室で首を吊ったら、目撃した同僚はショックを受けるだろう。それに、 『理研への抗議の意思表示が含まれた自殺』と受け取られて、理研に迷惑をかけるかもしれない」とまた「他者」のことを考えてしまったのではないでしょうか。そのような事態を避けようとして、理研の中ではあっても、階段の踊り場という理研の中心部を避けた場所を選んだのではないでしょうか。

 

正反対の「犯人捜し」をマスコミは始めるのだろうか?



 やはり国際的な研究者であり、早くもアメリカでは「組織の問題に責任感を背負って個人が自殺するという事は、日本社会に独特の伝統であり、アメリカ人には思いもよらない選択肢だ」と言う論評が出ているようです。わが国では、今後どのような論評が展開されるのでしょうか。過剰なバッシングが笹井氏を追いつめたのではないかという自責よりも、 「責任者は、誰だ」と言う笹井氏の死にざまとは正反対の攻撃的な犯人探しが始まるのかもしれません。

理研・笹井芳樹氏自殺の原因 | 現時点の報道で考えられる3つのこと

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 理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹・副センター長が自殺したと言うニュースが日本中を驚かせています。輝かしい業績のある研究者がこのような形で自ら命を断ったことに哀悼の念を表します。現時点で心理学的な立場で言いうることをわずかながら述べてみます。

 

死の意志は固かったと思われます


 まず第一に、 「死ぬ」意志の強さです。
 自殺には様々な方法がありますが、死に至る可能性の弱い順から並べると「服毒」 「リストカットなどの自傷」 「飛び込み・飛び降り」 「首吊り」であると言われます。つまり、自殺の方法の中で首吊りは死に至る可能性が最も高いものであり、それだけ「死ぬ」意志が強固な方法であるといえます(全てがそうだと断言するわけではありませんが、青酸カリなどはともかくとして、 「薬を大量に飲む」自殺方法は、周囲に気づかれる場合が多いので、 「自分はこんなに苦しんでいることをわかってほしい」と言う事をアピールしたいという意図も強いと言う場合があります) 。笹井氏の場合、 「覚悟の自殺」であった事は確実でしょう。

 

衝動的な自殺ではない


 
また、笹井氏の自殺は、衝動的なものではなく、考えぬかれた上に選択されたものであろうと思われます。なぜならば、 「複数の遺書を書く」 「自宅から遺書を持って研究棟まで行く」 「遺書を、 1部はカバンの中、 1部は机の上に置く」など、自殺の準備にまで相当な時間がかかっていると思われるからです。 「いきなり飛び降り」と言うことであれば、衝動的な自殺かもしれませんが、笹井氏は、長い時間を要する行動の中で、ずっと「自殺する」と言う意図を維持し続けていたと思われます。
 以前、笹井氏の指導に当たったことがある年長の研究者が数日前に「がんばりなさい」と言うメールを出したところ、返事が返ってこなかった、と言う報道がされています。あくまで可能性ですが、少なくとも1週間ほど前にはすでに自殺の決意を固めていたのかもしれません。

 

自分の行く末の悲観、プレッシャー…主なものでしょうか


 
 笹井氏が自殺を選んだ理由として、今後様々な憶測がなされるでしょう。そして、真相はわからぬまま終わる可能性も高いでしょう。
 理由として候補にあがるのは、 1つは、 「個人的な行く末を悲観して」と言うことです。理研の内部で、笹井氏に対する厳しい処分が検討されている事は報道されていました。
2つ目は、プレッシャーです。今月、STAP細胞に関する検証実験が予定されていました。笹井氏が、個人で自己検証するうちに、STAP細胞実験への確信が揺らいで行き、 「検証実験で失態を晒さざるを得ない」と予想してプレッシャーに耐えられない追いつめられた心境になった、と言う可能性です。(小保方さん宛の遺書の中には STAP細胞を実現して下さい…という一節があったそうですが、これは自殺の理由を説明するものではありません。後輩に対する励ましの言葉としてはこれが最上のものと思われたのでしょう。恨み言を他人にぶつけるよりも、他人を大切にしている姿勢がうかがわれると思います)

 

組織と個人の関係

 

 以上2つは、すぐに思いつくものですが、私は別の可能性の方が高いと思います。その理由は、笹井氏が死に場所として「CDBと通路でつながった先端医療センターの研究棟の4階と5階の間にある踊り場で、手すりにくくりつけたひも状のもので首をつっていた」と言う形を選んだということです。もし、 「個人的な行く末を悲観して」ということであれば、死に場所としては自宅で十分でしょう。
 ところが、笹井氏はわざわざ勤務先を選びました。笹井氏にとって、あくまで自殺は「理研発生・再生科学総合研究センター関係者の死」以外の形では考えられなかったのではないでしょうか。
 それを裏付けるものとして、小保方晴子・研究ユニットリーダー宛ての物を始めとして、カバンの中の3通の遺書がそれぞれ理研のメンバーに対するものであったということが挙げられます。デスクの上にも遺書らしいものが置かれていたと言う報道がありますが、理研の複数メンバーにあてたものだったのかもしれません。笹井氏は最後のメッセージをあてる相手として同僚を選んでいました(もちろん、自宅から外にあてた遺書が発見される可能性はありますが) 。
 これらを見ると、 「自分が理研に対して迷惑をかけてしまった」と責任を背負いこんでの自罰的な自殺であった可能性を考えてよいと思います。
笹井氏は釈明会見においても、理研のバッジをつけて現れ、それについて質問されると「今日、ここに出てきた一番の目的は謝罪です。多くの人に混乱と、失望、ご迷惑をかけたことにセンターの幹部としておわびを申し上げたい。一個人としてのみならず、幹部の一人としてなので、正式ないでたちで、職員の一人として来ています」と与えています。記録では、「センターの幹部として」と言う言葉が2回繰り返されています。
 以上を見ると、笹井氏は、理研との一体感が強かったのかもしれません。アイデンティティーの中で、 「理研の幹部」と言う事が占める割合が大きかったのかもしれません。しばらく体調を崩して入院していた時期があったようですが、 「理研に迷惑をかけた」と言う葛藤の大きさが一因となっていたのかもしれません。

 笠井氏にはやや責任感を過剰に背負い込む一面があったのかも知れません。小保方さんに対する苦言が書かれていても必ずしも不思議ではないのですが、あったのは「あなたのせいではない」という言葉だったということです。他人を非難しようとしないこういう人が、過剰なストレスを背負うと、矛先が自分に向かってしまうということは多々あることです。小保方さんよりも、論文のチェックに甘さが残ってしまった自分の方を責めてしまう人だったかも知れません。

 

死に場所の微妙さに現れたためらい


 以下のことは、かなり憶測が混じります。
 笹井氏が選んだ死に場所は微妙です。理研の中の1室ではなく、 「通路でつながった研究棟の踊り場」です。もしかすると、 「理研の中で首をつったら、理研への恨みととられたりして迷惑をかけるかもしれない。理研の幹部ではあっても、理研の中を死に場所に選べる権利は無い」と言う迷いのもとで、 「通路でつながった研究棟の踊り場」と言う微妙な場所を選んだのかもしれません。

 

遺書の「疲れた」にはマスコミ報道にも一因はないのか

 

 最後に、この間、笹井氏に対してマスコミが作ってきた風評に一因はないのかどうか考えてもよいでしょう。それは、大まかに言えば、 「ずっと優位に立っていた笹井氏は、山中氏に逆転されて、巻き返しを図ろうとして、世間の注目を集める目的で、小保方さんを始めとする女性研究者を周囲に集めていた」と言ったものです。これに対しては、同じ研究分野の研究者から「山中先生をライバル視しなくても、この分野には世界中にライバルがいるのに・ ・ ・ 」と疑問視する声も報道されていました。 1部のマスメディアの中には、笹井氏と小保方さんは男女の関係にあるかのような報道をしていたところもありました。
 普段、地道な研究生活を送っている研究者にとって、突然スキャンダラスな形でマスコミの脚光を浴び、あることないことを世間一般に流布されるという事態は全く未経験の事態であったはずです。一研究者のプライバシーにまで踏み込むような報道が笹井氏の自殺に影響を及ぼさなかったかどうかも検討の必要があるでしょう。

 遺書の一部が報道されていますが、「疲れた」という言葉もあったようです。「疲れた」はマスコミによる風評によるものもあったのではないでしょうか。