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矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

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抑うつ気質の人のウィークポイント | 笠井氏自殺は人ごとではない?自分を責める真面目かたぎが陥りやすいスパイラル

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笹井芳樹氏は「しょいこみ型タイプ」だった?

 理研・笹井芳樹氏の痛ましい自殺は、元来あった抑鬱気質の上にこのタイプの人たちが特に苦手とする「周囲との調和が破壊され、自分を非難する口実ができてしまった時の弱さ」と言う側面が現れ、自罰が急速に自殺へと進んでしまったのではないか、と私は考えます。短く言えば、 「背負い込み型のMタイプに突然これまでなかった重い荷物が背負わせ忘れられ、急速につぶれてしまった」と言うプロセスが進行したように思います。この見解は、すでに本日のテレビ朝日『モーニングバード』で解説していますが、 「抑鬱気質とは何か」と言うところから説明します。 「自分にも、あるある」と思い当たる方も結構いるでしょう。ご自分の長所・短所を客観的に把握する一助となれば幸いです。

 

「他人の期待に合わせる」「らしさ」の抑うつ気質


  抑鬱気質の特徴を並べてみましょう。根本的には、 「他人の意向」に自分を合わせようとし、他人とのあいだがスムーズであればほとんど葛藤に苦しむことのないタイプです。自分自身よりも、 「他人が自分に期待すること」を優先します。 「相手への気配り」に始まって、 「世間一般が自分に期待しているであろう事」にも忠実であろうとします。つまり、 「○○らしさ」と言う世間の期待する役割に合わせようとする人たちです。学校の先生であれば「先生らしく振る舞おう」とする、スポーツマンであれば「スポーツマンらしく振る舞おう」とする、女性であれば「女性らしく振る舞おう」とする、と言う傾向をみせます。さらに、組織に所属していれば、その組織が「自分に期待しているであろう事」にも忠実であろうとします。有名企業の社員であれば、 「○○社の人間にふさわしく行動しよう」と言うように、組織に対するロイヤリティの高い人たちです。

 

スタジオでお会いした格闘家ムサシさんはこのタイプっぽかった



  意外なところで一例を挙げると、総合格闘技で一時代を築いたムサシさんがそんなタイプでした。スタジオで長くご一緒したことがあるのですが、彼の口から出る事は、 「お客さんの期待を裏切らないように」 「フアンの声援に応えられるように」ということばかりでした。 「トップになってやる」 「絶対にライバルに勝ってやる」といったようないわば自己中心的な願望は全く口にしませんでした (もちろん、現役時代には、 「今度の試合では、絶対に相手をぶったおす! 」というような発言も多々なさったことでしょう。しかし、それらも「周囲が自分にアグレッシブな言動を期待しているから」だったのです) 。そして、それらの、 「周囲の期待」に応えようとしてのものすごいトレーニングを、質問されれば答えていましたが、常に謙虚な口調で練習量を誇るような言い回しは絶対にしませんでした。帰りにエレベーターでご一緒しました。私は「あなたは、元来は、他人をとても大切にする人なのではないですか」と質問すると、ムサシさんは申し訳なさそうな照れ笑いを浮かべながら頭を掻いて「実は、トレーナーからは『おまえほど、格闘技に不向きな性格の人間は滅多にいない』と言われているんです」と言っていました。

型に従う「古き良き日本人」タイプ

 

 このタイプの人たちは、他人の期待に応えようとするために「がんばる」 「無理をする」をしがちな人たちです。当世大流行の「自分らしさ」 「個性」と言う事はこの人達にはほとんど念頭にないようです。彼らにとっては、 「周囲の人の期待に応えることができて、摩擦が生じない」状態こそ最も大切なもので、はたから見るといわば「古きよき日本人」 。自己主張の少ない、真面目で気配りのできる温厚な人たちです。もっとも、やや型にはまった感じがあり、なかには周囲から「面白みがない」 「没個性的」と見られてしまうこともあります。

 

「いい人」な彼らが負のスパイラルに陥る時



 もちろん生きた人間ですので、笹井氏には別の側面もあったでしょう(精神的に健康度が高い人ほど、柔軟性があり、場面によって他の行動パターンに切り替えることができます) 。しかし、このたびの経過をみると、 「一旦『周囲の期待を裏切った』と言う事態になると、自分1人を過剰に責める」と言うこの社会性ある人たちの弱点が急速に出てしまったように思われます。これまで、栄光ある道を歩んできた笹井氏には「周囲の期待を裏切った」と言う状況の経験に乏しく、自分の苦手パターンになってしまったときに負のスパイラルを堪える自分流テクニックを磨く機会がないまま来てしまったのかもしれません。

 

論文を厳しく指導できなかったのも「他人への配慮」ゆえか?



  小保方さんの論文指導において、ややことを急いでしまったのは事実でしょう。他の研究者がメールで「論文に問題点がある」と指摘したときに、笹井氏の返答は「あとでゆっくり話し合いましょう」と言うものだったそうです。しかし、他人の論文指導というそれほど経験豊富とまでは言えない作業の中で詰めの甘さを見せてしまったようです。ただし、その中には、抑鬱気質独特の「相手の気持ちに対する気配り」もあったようです。 「他の、研究者に対して、 『未熟』を指摘することは、ためらわれた」というような発言もありましたが、そういう気配りが論文の仕上げを厳しく指導するには不向きだったのかもしれません。

 

「迷惑」を「挽回」しようとして「無理」をする



 STAP細胞論文の事件が世間を騒がすことになってから、笹井氏はそれまで経験したことがなかったようなバッシングを受けることになります。そして、早々に体調を崩し、いったん入院していたそうです。しかし、真面目なこのタイプの人たちが自分を追い込みやすいのは、 「これ以上休んだら、周囲に迷惑をかける」と言う外の基準を優先して、自分自身の体調や欲求を後回しにしてしまい、結局のところ無理をしてしまうことです。

 

他人を責めるより自分を責める



 とにかくこのタイプの者達は、他人を責めるよりも自分を責めることに傾きやすい-笹井氏は、早い段階で引責辞任の意向を組織内部で表明していたようですが、やはり、並外れて優秀な人だったのでしょう、上部から引きとめられていたそうです。そう言われてしまうと、このタイプの人達は、自分の初心を貫き通すことよりも、組織上部の意向に従うことを優先してしまいます。そういう組織内部の細かい事情までわからない世間から、 「図々しく居座っている」と言う目で見られることになります。ここで、笹井氏を引きとめた理研が、所属メンバーをを外部の風評から守る十分な対応を行ったとは言い難いでしょう。

 

我が身よりも他人の行く末を気遣う



  その後、断片的に伝えられる笹井氏の言動は、他人志向という抑鬱気質の一面が見られるものでした。例えば、 「この研究室はなくなってしまうかもしれないから、君たちも次の仕事に当たったほうが良い」と周囲に言っていたそうです。周囲の人の気配りが先に出てしまうところがこのタイプのよくある特徴です。決して「この、研究室が無くなったら、俺は、いったいどうすればよいのだ」ではなかったのです。

 

笹井氏のメンタルヘルスを守る方策は取られていたのだろうか



 STAPの存在を肯定する発言をしていましたが、その後、その存在を疑わせる事実が明るみになるに連れ強い責任を感じるようになっていったのではないかと見られています。そして、検証が予定されていた8月前には「鬱状態だったのではないか」と言う憶測が成り立つでしょう。 「心療内科に通い、薬の副作用でろれつが回らなくなっていた」 「昔の元気が失せていた」 「隠しの励ましのメールに返事を出さなかった」など数多くの材料があります。理研上部は「笹井氏は、このところ、研究上のディスカッションもできない状態だ」とほとんど喋る気力も失せてしまった状態の報告を受けていました。個人のメンタルヘルスに対する配慮は不十分なものではなかったのかという疑問が残ります。

 

組織への一体感・ロイヤリティー



 私がVTR取材で質問された事は、 「なぜ、職場の階段の踊り場を自殺の場所に選んだのか」と言う疑問でした。
  まず、笹井氏は、理研という組織に対する一体感がことのほか強かったと思われます。釈明会見の場にも理研メンバーのバッチをつけて現れ、それについて質問されると「私は、理研の幹部として、理研の落ち度をお詫びするためにきたからです」と言う趣旨のことを理解繰り返しています。公的に要求される役割を重視する発言でした。これは同時に「私は、理研の一員」と言うことが、アイデンティティの中で大きく、 「私は家族の一員」 「私は地域の一員」ということよりも比重が大きかったのではないかと思われます。
そんな笹井氏にとって、 「死に場所」は、自宅ではなく、理研でなければならなかったのは当然だったのかもしれません。彼にとっては、 「家族の一員」と言う以上に「理研の幹部」と言う意識が強かったのでしょう。

 

小保方さんではなく、自分を責めた



  笹井氏が死に場所としての理研に赴いたときに、懐に理研の複数メンバーに対する遺書を携えていた、と言う事は重要に思われます。ことに、小保方さんへのものには「あなたは悪くない」と言うことと、謝罪の言葉が書かれていたそうです。人によっては、恨みつらみを書いてもおかしくないと思うのですが、やはりここでも「悪いのは、あなたではなく私だ」と言う抑鬱気質の人の発想が濃厚に表れているように思います。他には、理研トップにあてた遺書や、事務にあてた遺書があったということですが、ここでも彼は、個人的なつながりというものよりも、自分が亡くなった後、相手に後ろめたさを残させないよう、円滑に引き継ぎが行われるようと言う、他者や組織に対する配慮を優先していたように思われます。

 

踊り場を選んだ理由



 最後に、 「階段の踊り場での死」と言う中途半端な場所の謎です。最後の最後に彼は、 「研究室や、実験室で首を吊ったら、目撃した同僚はショックを受けるだろう。それに、 『理研への抗議の意思表示が含まれた自殺』と受け取られて、理研に迷惑をかけるかもしれない」とまた「他者」のことを考えてしまったのではないでしょうか。そのような事態を避けようとして、理研の中ではあっても、階段の踊り場という理研の中心部を避けた場所を選んだのではないでしょうか。

 

正反対の「犯人捜し」をマスコミは始めるのだろうか?



 やはり国際的な研究者であり、早くもアメリカでは「組織の問題に責任感を背負って個人が自殺するという事は、日本社会に独特の伝統であり、アメリカ人には思いもよらない選択肢だ」と言う論評が出ているようです。わが国では、今後どのような論評が展開されるのでしょうか。過剰なバッシングが笹井氏を追いつめたのではないかという自責よりも、 「責任者は、誰だ」と言う笹井氏の死にざまとは正反対の攻撃的な犯人探しが始まるのかもしれません。