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矢幡洋の犯罪心理学と事件-日々の考察

犯罪事件コメンテーターとしてTVに出ることがあります。社会の出来事や自分の体験を心理学的に考察します。3日に一度、昔、単行本などに書いた少年犯罪分析を連載します。自分で取材した古い事件もあります。他、本家ホムペ・ブログ更新情報も告知します。

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愛媛伊予市17歳少女遺体発見事件| 被害者は制裁に甘んじていたのかも知れない、アイデンティティーを求めて

 

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 こういう情報初期段階のコメントって奴は・・・

 僕は、昨夜テレビ局でVTR収録を行った。 「愛媛伊予市17歳少女遺体発見事件」の事である。まだ、詳しい情報がほとんどない。ディレクターさんとしては、 「殺害された少女は、なぜ逃げなかったのか」ということのコメントが欲しいという。とりあえず、 「学習性無力症」 「DVなどに見られるアメとムチの使い分け」などということも言ってみたが、僕が1番可能性として考えてみたかった事は「殺害された大野さん自身が加害者 一家の家にいることを望んだのではないか」と言う線だった。


 事前にお断りしておくが、こういう最初期段階の報道でのわずかな情報に頼ったコメントは、大きく違っていることが多い。この段階で、論理的に考えていけば、 「そういうことも言えない事はないだろう」と言う程度の代物でしかない。

 

学校で:家庭で・・・もしアイデンティティーが得られなかったら


  例としては、少々古くなってしまう。とりあえず、こんなことを考えてほしい。学校でまるでうだつの上がらない生徒がいる。勉強面では落ちこぼれている。教 師の覚えもよくない。体育もからきしだめ。仲間からも認められていない。家に帰っても、無視されるか、せいぜいたまに罵声を浴びせられるだけ。どこからも 認められない。 「英語の得意な俺」 「バスケのシュートは得意な僕」というような肯定的なアイデンティティーは得られない。

 

プチ反社会的グループが所属意識とアイデンティティーを与えてくれる


 そこで、暴力団とつながりのあるパシリの愚連隊グループに入る。全てが一変する。 「お前は、なかなか見所がある」 「いつか、すごい男になるぞ」 ・ ・ ・愚連隊グループも、人手不足で、リクルートに必死なのだ。生まれて初めてほめられる。

 「もしかしたら、俺は、いっぱしの男なのかもしれない」 ・ ・ ・そう思って、グループの一員として街をのし歩くと、明らかに周囲はびびっている。父親や教師に似たようないい年のおっさんがこそこそと道を避けて通る。

否定的あるいは対抗的アイデンティティー

  さて、彼は学校に行くだろうか。家に帰るだろうか。いや、むしろ愚連隊グループと一緒にいることを好むことだろう。なぜなら、そのグループで初めて彼は居 場所を見出し、居心地の良さを感じることだからだ。周りの仲間たちは言う。 「俺たちは、社会のはぐれ者だ」 ・・・そして、みんなでお揃いの黒のジャージを着るようになるかもしれない。髑髏のバッチをつけるようになるかもしれない。 ・ ・ ・要するに、この非行グループに入ることによって、初めて彼はアイデンティティーを獲得したのだ。 「社会からつまはじきにされ、社会のルールに反抗するもの」と言う対抗アイデンティティー、否定的アイデンティティーかもしれないが。ともかくも、その非 行グループは「彼が、何者であるのか」と言う事を定義してくれて、しかも同じようなものが他にいるということでそのアイデンティティーを補強してくれる。

 

プチ反社会的グループはしばしば厳しいルールと制裁を持つ

  もちろん、そのようなプチ反社会的グループの中にも、厳しいルールがある。仲間の前で万引きをしてきて勇気なるところを見せなければならないかもしれな い。先輩の命令に従って即座にパシリをしなければ殴られるかもしれない。ひょっとしたら、こういうプチ反社会的グループの制裁は、学校や家庭でのペナル ティーよりもはるかに厳しい場合がある。だが彼はそれに耐えてしまう。厳しい制裁があるからこそ、このプチ反社会的グループへの入団(イニシエーション) は堅固な凝集性を感じさせる。彼は、喜んで、ときにはそのペナルティーを受けながら、この集団の厳しいルールを身につけようとしてしまうのだ。

ようやく見つけた居場所

  僕は、亡くなられた大野さんの身に起こった事はある程度これに近かったのではないかと想像している。最初は仲が良かった、と言われている。昼夜逆転で騒ぎ まくり、夜中の花火で団地のルールを破り、朝起きれば何者にも規制されない生活が待っている。確かに、社会の中から落ちこぼれたグループだ。だが、居心地 がよく、 「はぐれ者」と言うアイデンティティーを与えてくれる仲間たちだった。


 多くのプチ反社会的グループと同じように、グループの中にヒエラルキーがあった。女の3人の子供は1番上、男の友人たちはその次、居候の女の子達が最下層というピラミッドが。

集団内力関係の変化

  1人の女の子が、このグループから立ち去っていたという。おそらくヒエラルキーの最下層の扱い(子供の保育、家事全般)を押しつけられることに我慢ができ なかったのだろう。まったくの仮定であるが、これをきっかけとして、次の離脱者を恐れての制裁が厳しくなったのかもしれない。あるいは、単に「最下層」の 1人が居なくなってから、大野さんにその役がまわってきたのかもしれない。

制裁を受けても居場所とアイデンティティーが欲しかったのか?

 だが、大野さんは、不当な制裁を受けても、そのグルー プを抜け出すことができなかった。彼女にとっては、その制裁に耐えることが、グループの正規メンバーとして認められるただ1つの方法として感じられていた のかもしれない。言い換えれば、多少の痛い目にあっても、 「落ちこぼれグループの一員」と言うアイデンティティーを手放すことができなかった。


 大野さんに対する制裁は、集団が暴力に酔ったような状態になって次第にエスカレートしてゆく。そして、誰もが予想していなかった時に、彼女の若い命は終わっていた。

「いなくてもよかった」少女の悲劇

  現在のところ、これは僕の中での幻想に過ぎない。大野さんのこれまでの経歴によって、いずれ真偽は明らかになるであろう。ただ、収録から家に戻ってみて、 僕は彼女の両親が彼女が家から出て行った相当後になって事情を聴いた警察の勧めで初めて捜索届けを出した、という事実を知った。彼女は、それまで 「いてもいなくてもいい存在」として扱われていたのかもしれないと思って、胸がいたんだ。

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小保方さんvs野々村議員 | 真逆の二人、演技性対妄想性

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小保方さんの真逆タイプは? 

 

小保方さんの基本的なパーソナリティーは、 「感情によって動かされやすい気分屋さん」 「注目を浴びたがり、でっかいことを言いたがる」 「外見で人目を引こうとする」 「アイデアマンで社交的」と言う過大評価されやすい側面と「ルール・ポリシーに従って自分をコントロールすることが苦手」 「計画性がなく、ずさん」 「面白そうだと思うとすぐに飛びつき一貫性がない」などのアテにならないルーズさを持つ演技性人格をモデルとして理解できるkだではないか、と指摘してきました。


 では、こういう「派手な口先だけキャラ」と正反対のパーソナリティースタイルは何でしょうか。それは、強迫性パーソナリティーです。自分の感情を押し殺し、ルール・規則と合理的な計算によって物事を計画的に進めて行こうとする「堅実キャラ」です。 「伝統的な硬直した採用人事スタイル」が散々批判された時代の、企業から比較的好ましいとみなされたのはこのようなタイプです。服装にしろ、仕事ぶりにしろ「きちんとしている」がキーワード。いったんやるとなったら、提出書類を不必要なまでに何度もチェックする完璧主義。手堅い仕事人間ではありますが、規則優先の官僚タイプで柔軟な発想に乏しい地味な人たち・ ・ ・ 。

 

強迫性性格とした元野々村議員ですが、別の側面も・・・


  「強迫性パーソナリティーかも」としてすでに登場しているのが号泣会見の(元)野々村兵庫県県議員です。


 確かに、野々村元議員の中には強迫的な傾向も濃厚です。 「道を曲がるときには、必ず直角に曲がる」 「子供の頃から、遊びの場所でもフォーマルウェアで通す」 「答弁するときに必ず『今のご意見にお答えいたします』と判を押したような前置きを入れるので、結果、時間切れ」 「車の影が全くない時でも信号が赤だったら1人だけでも渡ろうとしない」 「修学旅行の時まで受験参考書を持って行き、時間を惜しんで勉強」 (強迫性パーソナリティーは、演技性パーソナリティーとは逆で、 「やっていることが、楽しい」ことではなく、 「やったことによって、成果が出るか」と言うことによって行動を選ぶ成果主義の傾向が強い」一面があります) 。


  しかし、旅費などの公費に関して出鱈目だった野々村議員を典型的な強迫性タイプと言うことができるでしょうか。この点に関して、野々村議員について記事に書いたときにも、 「他の見方もできる」と述べておきました。

 

鍵は名刺交換の意味の解釈にある


  「他の見方をした方が良いのか」と言う事は、あの号泣会見の冒頭で、一人ひとりの記者と名刺を交換し、質問に答えるとき名刺で名前をチェックしてから喋っていた」と言うことを、 「ルール・形式にこだわる融通の利かなさ」の表れと解釈するのか、 「手厳しい質問がやってくるだろうと予想し、 『誰が、どんな発言をしたのか、ちゃんとチェックしているぞ』という牽制」と解釈するかによって、全く話が違ってくるからです。そしてその後、 (細かいところは勘違いがあったようですが) 「プライバシーを脅かされた。自宅まで取材に来たのは名刺を見ると○○・・・」と反撃したところなどを見ると、どうも「攻撃されることを予想した牽制」と見た方が良いような気もしてきます。すると、見方としては、 「 強迫性パーソナリティーと妄想型パーソナリティーのブレンド」と言う線が出てきます。

 

妄想型パーソナリティー・・・内に秘めた自分への過大評価

 妄想型パーソナリティーの基本的な特徴は、「周囲から不当な扱いを受けている」という被害者意識であり、周囲に対して些細な現象の裏に悪意を発見しようとして執拗さを見せることです。


  私が、強迫性パーソナリティーの線に沿って考えながらも、どうもすっきりとしなかったのは、野々村議員の過去の言動の中にかなりぶっ飛んだものが散見されたからです。

 

仏・ 龍神・宇宙


 以前、議会で「仏の野々村竜太郎が龍神と化して龍がごとく、議会を焼き尽くす」と“問題発言”をしたこともあるという報道もありました。「仏」にしろ「龍神」にしろずいぶん強大なものに自分を模したものです。原則的に強迫性パーソナリティーは「私は○○社の係長」というような「組織人としてのアイデンティティー」がつよく、こんな発想はまずありません。これらは、野村議員の中に「超絶的強大な自己」という非現実的な感覚があったことを感じさせます。「自分とは関係ない選挙でも、投票用紙に自分の名前を書く」という逸話も過大な自己評価でしょう。


 また、「俺にできないことはない」ぐらいの過大な自己評価があったようで、4年ほど前、自営業男性が、食事の際に野々村氏は「宇宙の力を手に入れると仕事も健康も良くなる。自分はその宇宙のパワーをコントロールできる。あるセミナーを始めてからは『宇宙の力がみなぎって何事もうまくいくようになった』名刺の裏にも宇宙の写真が刷り込まれてありました」とか。

「皆が悪意を抱いている」ほどの重要人物なのか?

 妄想性性格者は、自分自身を重要人物と考えます。「みんなが自分を陥れようと敵意を持っている」と信じる人は、逆に「自分はみんなにとって重要人物」という過剰な自意識を持っているものです。出来事を自分に関係づけて考えるという強い傾向を持ち、自分だけに感知できる「攻撃」を周囲から受けている、と決めつけます。

 

この立場から号泣を解明すると


 ある年度の委員会選出で同じ常任委員会入りを希望したA議員と野々村氏。調整の結果、野々村氏は別の委員会に所属することになりました。すると野々村氏はA議員に対して「この恨みは一生忘れない」とメールを送信し、その後も敵意を露骨に見せた態度をずっと続けたそうです。


 とにかく日頃から、電話受け一つでも、突然怒り始めることがよくあったとか。「彼らは、自分の無能・無力さを思い起こさせるような立場におかれそうになったり、ほんのちょっとした刺激に対してもすぐに怒り出す」とミロンは指摘しています。


 どうも、普段から「周りから過小評価されている、陰謀だ」と言いたげな敵意を積もらせていたのかも知れません。ミロンはまた「この敵意は積もり積もったものであり、いったん引き出されると、それまでに蓄積された怒りが爆発することもある。些細なはずの出来事に対して、過去から鬱積している怒りが焚きつけられ爆発することもある」としていますが、これこそ突然の号泣を説明するものかも知れません。

 

小保方・野々村どちらでもお好きな方をどうぞ


 計画好きな頭でっかちの強迫性性格の頭の中は論理で一杯です。どうも野々村元議員の論理は整合性がほとんどないように見えるのです。ただの強迫性性格は、とにかく性格で責任感が強いので、地味であっても組織の有能な一員でいることはできます。対して、野々村議員は議会がもてあましていたようですね。強迫的な一面を持ちながら、中身はかなり妄想的だったのかも知れません。


 さて、究極の質問です。あなたが会社の社長さんで小保方さんか野々村さんかどちらか一人を採用しなければならないとしたら、どちらを選びますか?

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メンタル系コメンテーターが「演技性人格」と言うのは全て間違っている | 香山リカの佐村河内・小保方問題勘違い

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「専門家」たちの「演技性」パーソナリティへの誤解

 ご大層なタイトルを掲げたが、仕方がない。ぼくは、同業者が「演技性パーソナリティー」と言う言葉を使ってコメントをするときに、それが正確だと思ったことが1度もない。 「自分だけが、正確な理解をしていると言うのか」と言われるのなら、 「そうだ」と答える。


 いきなり大きく出たからには、僕がどの程度のことを知っているのか説明しておこう。ぼくは、少なくとも当時、人格障害の6人の大家たちの演技性人格障害に関する説明は全部原文で読んだ。ミロン(進化論派)カーンバーグとストーン(精神分析派) ベックとスペリー(認知療法派)ベンジャミン(対人関係論派)てある。彼らが演技性人格障害の事例としてあげる13個の事例研究は一旦そ訳して書き直した。それらの成果は『ノリの良すぎる男と担任に踊らされる女-演技性人格障害とは何か』であり、このタイプに関して丸ごと1冊で論じた本を書いているのは僕だけではないかと思う。

 

香山リカよ、「演技性性格」は演劇とは何の関係もない

 例えば、最近テレビでふと耳にしたのは、佐村河内守について「演じているうちにその人格になりきり、嘘をついている自覚もなくなってしまうのです」と言う香山リカの「演技性人格障害」コメント。


 僕は、この概念が使われるたびに、皆不勉強なまま「演技」と言う言葉に引きずられていると思う。 「演技性パーソナリティー」とは、もとより「ヒステリー性格」が広まりすぎているので、学術的な別の言葉を当てようとした経緯がある。言語の「ヒストリオニクス」は分厚い英語辞書に1行程度の訳が載っているだけのかなり特殊な言葉。おそらく、 「芝居がかった」と言うオーバーアクションを表す言葉を「演技性」という苦しい言葉で表現したものと思われる。

演技性性格とは「チャラ男」「ペラ男」「お調子者」

 このタイプは、問題とされるパーソナリティーの中でも、最も明るくノリがよく軽薄なタイプである。伝統的な日本語で言えば「お調子者」と言う言葉が最も近い。 「チャラ男」「ペラ男」などの言葉は、本質をよく言い当てている。

 

はるかにコワモテな佐村河内守氏

 香山リカは、佐村河内守氏について「演技性人格障害の可能性がある」と述べていたが、そもそも、演技性人格障害とは、 「忘れられるのは嫌だ、相手の気を引こう」という「他人によく思われたい、嫌われたくない」という他人のご機嫌取りをやる本質弱虫である。 ふてぶてしく、たったひとりで謝罪会見をし切り、憎っくき暴露記事の記者の姿を見たら拳を振り上げずには居られないような「強者(ツワモノ) 」ではない。普段はノリノリでも、いったん相手の好意が得られていないとわかればしょぼくれるだけなのだ。

相手のすきにくらいつく佐村河内守氏の強さ

 香山リカの小保方さん批判は「 『あざとかわいい』女性です。(中略)『やる気は十分。でも未熟な女性科学者』VS『マスコミ』『権力を持った理研の上司』という対立構造を見事に演出していました」と手厳しいで話題を呼んだが、これも大外れだ。 佐村河内守氏 は、 「軽い難聴の診断書はあるのだから、 『耳が聞こえない』と決めつけるのは嘘」とたった1点反撃できる箇所を反撃しまくった。肝心の「他人の作品を自分の作品として『聴力を失った作曲家』として社会を欺いた」と言う肝心のところには話を持って行かさせなかった。

小保方さんってそんなに辣腕家か?

 じゃぁ、謝罪会見の時の小保方さんは「あざとい」 「見事に演出した」と言うほどの豪腕ぶりを示したのか。佐村河内守氏とは対照的なのだ。始終弁護士の方を見ては、指示を待っていた姿は、このタイプの本質的な他人への依存性を表しているし、全体の「しゅんとした感じ」は、このタイプがいったん他人の好意が得られていないと感じるときのパワーダウンした姿にすぎない。佐村河内守氏を香山リカが「演技性人格障害」といったところで、佐村河内守氏は他人の好意など何も期待いないふてぶてしさで開き直っているのである。

おおざっぱ-派手好きだが中身はスカスカ


 演技性パーソナリティーは、とかく外部の刺激に引きずられやすい。割烹着が良さそうに思えたら、着てしまうし、ピンクの方が可愛いと思ったら、壁をピンクに塗ってしまうし。とかくノリの良さが身上なのだが、問題は外部の刺激に流される気分屋で、自分のポリシーや社会のルール・マナーに従って自分をコントロールする力の弱さである。実験ノートにもふっと「かわいい」と思ったらムーミンを書いてしまうし。本質的に、小保方さんの起こした問題は、ステキなことには(STAP細胞)うっとり夢見てしまう一方で、緻密なルール遵守や自己管理が恐ろしいまでに杜撰だった、と言うところからきている。

 

大きな事ばかり言ってまわりを振り回す杜撰上司に似ている


  日本社会は、問題を起こした人をひたすらに「極悪人」として描くことがすっかり好きになったようだ。だから、小保方さんを「全てを計算ずくでやった希代のペテン師」と糾弾する方がウケが良いだろう。だが、小保方さんの起こした問題は、日常的な例をあげれば 「新しい物好きでカタカナ語が大好き、いつもおしゃれ」と言う外面上司が「おう、今日はみんなでパパーっと楽しくいこうや。部署全員に俺がVIPにおごってやるぜー!」と皆を期待させておいて、行ってみたら、会費の集め方はデタラメだわ、出席確認どころか連絡すらろくにやってないわ、挙げ句の果てには、「VIPな店」はとっくの昔に移転していた・・・ 「あんなやつを信じた俺が馬鹿だった」 、と言う惨状の構造ににている。もっとも、引き起こした事は、このタイプが引き起こしうる混乱の最大級のものだったが。

妻の性同一性の揺らぎ | その起源と行く末 - 矢幡洋の精神医学と心理学更新情報

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人物本位採用の終わりを告げる小保方さん問題 | 茂木健一郎が言っている理念はもう賞味期限切れ

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ことの起こりには美しすぎる 「人物本位採用」

茂木健一郎、吼える

 また吼えた茂木健一郎氏(以下敬称略)。問題となったツイートを引用しておこう。


茂木健一郎 @kenichiromogi
あのさ、マスコミ諸君、マジで質問したいんだけど、小保方晴子さんの理研による採用が、通常と違うプロセスだったって、何が問題なんだよ? すべての採用者を同じ基準で選ばなくちゃいけない、という法律でもあるのか? 君たちのその報道姿勢が、日本のイノベーションを妨げているといい加減気づけ!

 さて、それでは、小保方氏の採用プロセスがどういうものだったのか、まとめてみよう。

 

 

美しすぎる人物本位採用

 

 

 

1.2012年4月27日、小保方氏は理研神戸事業所でSTAP現象に関し説明した。


2.時期は前後するが、採用時にCDBの竹市センター長が野依理研理事長に提出した推薦書類には、iPS細胞のがん化リスクが挙げられ「新規手法の開発が急務」と提言されていた。


3.同年10月、発生・再生科学総合研究センター(CDB)は特に幹細胞研究者の採用を掲げ、新任PI(研究室主宰者)の公募を開始。11月の非公式な打ち合わせで小保方氏が候補となり、西川伸一・ 当時 の副センター長が小保方氏に応募するよう打診した。


4.人事委員会は過去の論文や応募書類の内容を精査しないまま面接を行い、 (小保方氏は重要な申請書を締め切りまでに提出できなかった) 採用内定。 実は、提出された小保方氏の研究計画書の英文は、米ハーバード大が提出したSTAP細胞関連の特許出願書類と同一の文章が多数あった 。 人の細胞として示していた画像が、マウスの細胞を使った博士論文の画像の転用だった。


5.英語による公開セミナーを省略し、これに代わる非公開セミナーも行わなかった。


6.竹市氏や笹井芳樹副センター長は、小保方氏には論文を完成させる経験が不足していると認識していた。竹市氏は論文の作成指導を笹井氏に依頼した。
小保方氏のデータ管理は極めてずさん ・貧弱 で、実験の検証・追跡を不可能にした。

  理研発生・再生科学総合研究センター(神戸市)に設置された自己点検検証委員会がまとめた報告書案 は「小保方氏の採用は、必要とされるプロセスをことごとく省略する異例ずくめのものだった。研究者としての資質と実績を評価して、というよりも、iPS細胞研究を凌駕(りょうが)する画期的な成果を獲得したいとの強い動機に導かれた可能性が極めて高い。」「日本の代表的機関で起こったとはにわかに信じがたいずさんさ」と批判した。



 昔叫ばれた「日本的人事制度の弊害」

 


 少し昔の話になるが、 「日本的な人事採用の弊害」が声高に叫ばれた時期があった。学歴が重視されている、だから「人物本位」で人を選ばなければ日本企業の旧態然とした体質は変わらない・・・そこで「旧来の日本的採用方法」の問題として挙げられたのは、次のようなことであった。昇進などにおいても、ピラミッド型の階段を1つ1つ上っていくスタイルが取られ、思い切った抜擢は滅多に行われない。これによって、能力のある人材が裁量をふるえるチャンスが遅れる。ピラミッド型組織は1つの決断をしたの窓から最上層まで上げていかねばならず、硬直する。そもそも、人事が慎重すぎる。昇進に当たっても、上から、下から、横からの評価が、長期にわたって人材の評価となってやっと昇進が決まる。それで、結果としては、 「どこからも文句がつかない中庸な人材」が選ばれることになる・・・このような批判は、大学の入試制度にまで影響を及ぼした。ときには「一芸入試」などと呼ばれた。その背後には、 「人材評価は多様であるべきであり、 『そつなく、まんべんなくこなす』秀才タイプだけが選ばれている。他の点は欠けていても、 1点において突出したものを持つ人材を積極的に評価するシステムが必要だ」 。ピラミッド型組織からフラットな課題志向のチームがアメーバのように発生・派生・解体・再構成されて、変化のただなかで最も重要性の高い課題を自ら設定するフレキシブルな組織でなければならない。だから、大胆な権限委譲が行われ、課題志向のチームが大きな自主裁量権を持つことになる。

 

 

模範的なまでの「大胆な人事」


 

 

 さて、以上の小保方さんの採用プロセスを見るならば、これは、 ひと頃「日本の保守的組織の硬直的パターンを打ち破る人材登用」と美化されたスタイルとほぼ同じなのではないだろうか。トップダウンで、中間管理職のチェックなくして「緊急の課題」が設定される。他の点について欠けるところは多々あっても、高い意欲を持ち、 1点において突出した人材を高いチームのリーダーに抜擢する。チームは、ピラミッド型の機構から独立性が高く、大きな自主裁量を任されている・ ・ ・もし小保方さんが何らかの成果を上げていれば、 「大胆な人物採用の成果」として美談化されていたことだろう。

 



 人物登用の大チョンボは防げなかった


 

 茂木健一郎が叫ぶところは、 「型破りな才能を人物本位で抜擢する新人事システムこそが、日本社会にイノベーションをもたらす」と言うもはや20年近く前に声高に唱えられてきたことを彼が素朴に信じこんでいるということを示すに過ぎない。小保方さんの採用によって、 1つの組織がほとんど壊滅するほどの致命的打撃を受けた-これは、美しすぎる「人物本位の採用」が、いったんチョンボを起こせばどれほど社会を破壊するか、という事例としても見ることができるのだ。

 

もう見直そう、美しかった夢を

 

 

 

 

 もちろん、相互にチェックし合うピラミッド型組織に戻ればそれで良い、と言う話では無い。だが、この間日本社会に蔓延した「型破りな才能を人物本位で抜擢する」ことへの信仰に近い期待はそろそろ見直す時期に入った方が良い。

 

 

「人物本位の採用」は実は不公平だ



 心理屋の僕が、小保方さん問題を踏まえて今後日本の人材評価はどうあるべきか、という提言まではできない。ただ1つ、ぜひ強調したいことがある。それは、 「人物本位の抜擢」システムには、そのシステム独特の不公平さと不合理を含んでいるということだ。つまり、 「面接官の前で、実力以上のパフォーマンスを披露する」ということに長けた性格タイプが存在する。自己愛性パーソナリティーと、演技性パーソナリティーである。前者は、自己評価が高すぎ、できもしないことを平然と歌い、他人の印象操作に長けている。後者は、 「他人に振り向いてほしい」欲求が根本にあり、自分を目立たせたがり、そのためには、大風呂敷を広げて高い理想を語る。外部の刺激につき動かされ、細かいルーティーンや原則順守といった自己コントロールが苦手である。

 

自己アピール上手が過大評価される時代

 



 今のところ、僕は小保方さんはおそらく後者のタイプに属するのではないかと想像している。ウットリ屋さんの夢見る乙女だが、シビアな自己チェックは非常に苦手である。このようなタイプの人々がアメリカ社会で過大評価を受けやすい事はミロンが力説している。そして、日本でも「人物本位の抜擢」に置いて短時間の自己表現が苦手な性格タイプは、実力以下の評価しか受けないという不利を被ることになる。

 いずれにせよ、この問題をきっかけとして、最近のトレンドに抗して、日本社会での人物評価のあり方を再考する必要があるのではないだろうか。